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'''河埜 和正'''(こうの かずまさ、[[1951年]][[11月7日]] - )は、[[愛媛県]][[八幡浜市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])。
 
実弟は元プロ野球選手の[[河埜敬幸]](元[[福岡ソフトバンクホークス|南海・ダイエー]]、主に[[二塁手]])。2019年現在、日本プロ野球でともに4000打数を達成した唯一の日本人兄弟選手である(他に外国人選手でリー兄弟)。
 
== 経歴 ==
[[愛媛県立八幡浜工業高等学校|八幡浜工業高校]]では2年生の時、{{by|1968年}}秋季四国大会県予選準決勝に進むが、[[愛媛県立八幡浜高等学校|八幡浜高]]の[[藤沢公也]]に完封を喫する。翌{{by|1969年}}夏予選大会敗退甲子園には出場できなかった。
 
同年の[[1969年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]6位で巨人に指名され入団。二軍暮らしが長かったが、{{by|1974年}}に[[黒江透修]]に代わり[[遊撃手]]のレギュラーを獲得する。{{by|1977年}}には初めて規定打席に到達(20位、打率.294)し、リーグ2連覇に貢献。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1977年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第3戦で、延長12回裏に[[山口高志]]からサヨナラ3点本塁打を放ち、同シリーズの敢闘賞を獲得。{{by|1981年}}には開幕から一番打者として起用され、[[松本匡史]]、[[篠塚和典|篠塚利夫]]とともにチャンスメーカーとして活躍、4年振りのリーグ優勝を果たす。同年の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも全試合に先発出場し、21打数9安打3打点を記録。日本一の大きな原動力となり同シリーズの優秀選手賞を得た。その後も{{by|1984年}}まで定位置を守るが、{{by|1985年}}には[[岡崎郁]]にポジションを譲り、{{by|1986年}}限りで引退。巨人では、[[坂本勇人]]<ref>入団当初の背番号は、河埜と同じ61。</ref>に更新されるまで球団最多だった遊撃手出場記録(1370試合)を持っている。