「トマス・ホランド (初代サリー公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
2行目:
| 人名 = トマス・ホランド
| 各国語表記 = Thomas Holland
| 家名・爵位 = 第3代[[ケント伯爵|ケント伯]]<br>初代サリー公
| 画像 = Harley1319surrey.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[ケント公|ケント伯]]:[[1397年]] - [[1400年]]<br>サリー公:[[1397年]] - [[1399年]]
| 続柄 =
| 称号 =
21行目:
| 子女 =
| 家名 = [[ホランド家]]
| 父親 = 第2代[[ケント公|ケント伯]][[トマス・ホランド (第2代ケント伯)|トマス・ホランド]]
| 母親 = アリス・フィッツアラン
| 栄典 =
28行目:
| サイン =
}}
'''初代サリー公・第3代[[ケント伯爵|ケント伯]]'''トマス・ホランド'''(Thomas Holland, 1st Duke of Surrey, 3rd Earl of Kent, [[ガーター勲章|KG]], [[1374年]] - [[1400年]][[1月7日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族。第2代[[ケント公|ケント伯]][[トマス・ホランド (第2代ケント伯)|トマス・ホランド]]と第10代[[アランデル伯爵|アランデル伯]][[リチャード・フィッツアラン (第10代アランデル伯)|リチャード・フィッツアラン]]の娘アリスの長男。父方の祖母は[[ジョーン・オブ・ケント]]で、イングランド王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]は叔父(父の異父弟)に当たる。
 
== 生涯 ==
父と叔父のハンティンドン伯[[ジョン・ホランド (初代エクセター公)|ジョン・ホランド]]がリチャード2世に重用されたことからトマスも側近に引き立てられ、[[1397年]]に死んだ父の爵位を受け継ぎ第3代ケント伯となった。同年にリチャード2世が[[グロスター公]][[トマス・オブ・ウッドストック]]と第11代アランデル伯[[リチャード・フィッツアラン (第11代アランデル伯)|リチャード・フィッツアラン]](ケント伯の母方の伯父)ら反対派貴族を処刑した後に新設のサリー公に叙爵されたが(叔父も[[エクセター公]]を授与)、[[1399年]]にクーデターでリチャード2世が廃位、代わって即位した[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]から爵位を取り上げられ元のケント伯に戻された<ref name="青山">青山、P406。</ref><ref>ロイル、P75 - P76、P424、</ref>。
 
これに不満を抱いたケント伯は叔父と[[ソールズベリー伯爵|ソールズベリー伯]][[ジョン・モンタキュート (第3代ソールズベリー伯)|ジョン・モンタキュート]]、元グロスター伯[[トマス・ル・ディスペンサー (初代グロスター伯)|トマス・ル・ディスペンサー]]と組んで1400年1月の[[公現祭]]のヘンリー4世[[暗殺]]を計画したが発覚、即座に民衆に捕らえられ処刑された<ref name="青山">青山、P406。</ref><ref>森、P186 - P187、ロイル、P83、P91。</ref>。スタッフォード伯[[ヒュー・ド・スタッフォード (第2代スタッフォード伯爵)|ヒュー・ド・スタッフォード]]の娘ジョーンと結婚していたが子が無く、ケント伯位は弟の[[エドマンド・ホランド (第4代ケント伯)|エドマンド]]が継承したが、[[1408年]]に彼も子供が無いまま死去してホランド家は断絶した。ただし、従弟で共犯者として処刑された叔父の遺児[[ジョン・ホランド (第2代エクセター公)|ジョン]]は後にエクセター公位を与えられ分家が再興を果たした<ref>ロイル、P413。</ref>。
 
== 脚注 ==
50行目:
{{s-reg}}
{{succession box|title=サリー公|before=新設|after=消滅|years=1397年 - 1399年}}
{{succession box|title=[[ケント伯爵|ケント伯]]|before=[[トマス・ホランド (第2代ケント伯)|トマス・ホランド]]|after=[[エドマンド・ホランド (第4代ケント伯)|エドマンド・ホランド]] | years=1397年 - 1400年}}
{{end box}}