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| その他の賞 = [[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|石原裕次郎賞]](追悼創設)<br />[[映画の殿堂]](1990年)<br />[[毎日映画コンクール]](特別賞:死後)
}}
'''石原 裕次郎'''(いしはら ゆうじろう、[[1934年]]([[昭和]]9年)[[12月28日]] - [[1987年]]([[昭和]]62年)[[7月17日]])は、[[昭和|昭和時代日本]]を代表する[[俳優]]、[[歌手]]であり、[[司会者]]や[[モデル (職業)|モデル]]などの[[マルチタレント]]、また、[[実業家]]・[[ヨットマン]]としても活動していた。[[身長]]180cm。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。愛称は'''[[タフガイ]]・裕ちゃん・ボス・ユージロー'''。[[石原プロモーション]]元代表取締役社長(初代)兼会長
 
[[身長]]180cm。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。愛称・キャッチコピーは'''[[タフガイ]]'''で、その他、裕ちゃん、ボス、社長などの愛称があった。主に「石原(さん)」とは呼ばれず、「裕次郎(さん)」と呼ばれることが多かった。[[昭和時代|昭和]]を代表する俳優・[[タレント]]とされている。
 
[[石原プロモーション]]創立者で、初代代表取締役社長兼会長。[[ヨットマン]]としても活動していた。
 
兄は[[政治家]]で[[小説家]]の[[石原慎太郎]]。
 
(以下本項目では、呼称について「裕次郎」と記載する。
 
== 来歴 ==
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[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]で生まれ、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]に育つ。父・石原潔([[山下汽船]]社員)は[[愛媛県]]、母・光子は[[広島県]][[宮島町|宮島]]の出身<ref>{{Cite web |url=http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |title=石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜 |work=グレートマザー物語 |publisher=テレビ朝日 |date=2002-02-24 |accessdate=2016-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021202203720/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |archivedate=2002-12-02}}</ref><ref>[[佐野眞一]]『てっぺん野郎─<span style="font-size:90%;">本人も知らなかった石原慎太郎</span>』([[講談社]] 2003年)</ref>。
 
マリア幼稚園(現在の[[小樽藤幼稚園]])卒園、[[小樽市立稲穂小学校|稲穂国民学校]]時代に[[競泳]]や[[天狗山 (小樽市)|天狗山]] で[[スキー]]に親しむ。[[逗子市立逗子中学校|逗子中学校]]時代からは[[バスケットボール]]に熱中した。その後、[[慶應義塾高等学校]]を目指すが受験に失敗し、[[慶應義塾志木高等学校|慶應義塾農業高等学校]]に籍を置く進学したが、[[1951年]]に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]][[政治学部|政治学科]]に内部[[進学]]するが、[[放蕩]]生活に明け暮れる。
 
大学在学中から俳優を目指し[[東宝]]と[[大映]]、[[日活]]の[[オーディション]]を受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー[[水の江瀧子]]と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の[[芥川賞]]受賞作『[[太陽の季節]]』の映画化の端役で映画デビュー。ま、当時伝説のプロレスラー力道山、在日朝鮮人とも交友があったとされている
 
その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』では、後に妻となる[[石原まき子|北原三枝]]を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和映画界を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。
 
1963年に[[石原プロモーション]]を設立。1970年代以降は映画から離れ『[[太陽にほえろ!]]』、『[[大都会 (テレビドラマ)|大都会]]』など[[テレビドラマ]]で活躍した。[[戒名]]は陽光院天真寛裕大居士。[[墓]]は[[万成石]][[五輪塔]]で[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にある[[總持寺]]に立てられている。墓碑には妻まき子の直筆で次のような言葉で綴られている
 
* 1978年 - 舌下[[潰瘍]]のため入院・手術。その後[[悪性腫瘍]]([[舌癌]])との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。1979年には舌下[[白板症]]と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術する
 
* 1981年4月 - 『[[西部警察]]』のロケ撮影中背中と胸に激痛が走り[[慶應義塾大学病院]]に緊急入院。当初[[椎間板ヘルニア]]が疑われたが、その後[[大動脈解離|解離性大動脈瘤]]と診断され(後に右耳が[[難聴]]となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院した(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、[[発熱]]が続き、右耳が[[難聴]]となった。
 
* 1984年 - [[肝癌|肝臓癌]]が発覚し、倦怠感・[[腰痛]]の末、原因不明の発熱にいる(前の定期健診で[[肝細胞癌]]と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)をされなかった
 
* 1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。[[高血圧治療薬|血圧降下剤]]の副作用による肝内[[胆管炎]]と診断され、7月退院後は[[ハワイ州|ハワイ]]で静養した
 
* 1987年4月20日 - 、体調不良を受けてハワイから急遽帰国直後に慶應義塾大学病院へ検査入院<ref group="注釈">この時石原裕次郎を治療したチームの中に、後に[[オウム真理教]]に入信し[[地下鉄サリン事件]]などを引き起こした[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]がいた。</ref>。5月2日に一旦退院した([[カテーテル]]治療)ものの、3日後に再入院、容態悪化(高熱)、ついには[[幻覚]]症状([[肝性脳症]])を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開する。しかしが、16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。
 
[[戒名]]は陽光院天真寛裕大居士。[[墓]]は[[万成石]][[五輪塔]]で[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]にある[[總持寺]]に立てられている。墓碑には妻まき子の直筆で次のような言葉で綴られている。
{{quotation|''美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。''}}
[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。
 
[[2018年]]7月17日に行われた32回忌法要では、妻である[[石原まき子]]や[[舘ひろし]]、[[神田正輝]]ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間、全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した<ref>{{Cite news|title=石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表|date=2018-07-17|url=https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180717-OHT1T50105.html|accessdate=2018-07-20|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref>。
 
=== ケガ・病気の遍歴 ===
* 1952年 - バスケットボールの最中に左足膝に大ケガ。
* 1956年 - この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る。幼少時代から[[肝臓]]は悪かったといわれている([[在籍者 (学習者)|高校生]]の頃に[[黄疸]]を発症したことがある)。
* 1957年 - [[自由が丘]]で[[無免許運転]]し右足[[打撲]]。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。
* 1961年 - [[志賀高原スキー場]]でスキーヤーと衝突し右足首[[粉砕複雑骨折]](後に右太股[[腫性膿瘍]]の手術で入院。
* 1964年 - [[ハワイ州|ハワイ]]でヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。
* 1965年 - ヨット乗船中に[[腹痛]]のため大会を途中断念。
* 1967年 - 映画[[黒部の太陽]]撮影時に出水事故に合う。意識を失い、右手親指を[[骨折]]し、指の指紋は全部消え、左足を激しく痛めるなど、大怪我をした。
* 1968年 - 右足打撲で全治1か月入院。
* 1971年 - [[心労]]と[[胸部疾患]](後に急性[[肺炎]]→[[肺結核]]と判明)のため映画宣伝中に入院。
* 1974年 - 階段で転倒し左肩打撲(後に左[[鎖骨骨折]]と判明)。
* 1978年 - 舌下[[潰瘍]]のため入院・手術。その後[[悪性腫瘍]]([[舌癌]])との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。
* 1979年 - 舌下[[白板症]]と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。
* 1981年4月 - 『[[西部警察]]』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り[[慶應義塾大学病院]]に緊急入院。当初[[椎間板ヘルニア]]が疑われたが、その後[[大動脈解離|解離性大動脈瘤]]と診断され(後に右耳が[[難聴]]となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、[[発熱]]が続いた。
* 1984年 - [[肝癌|肝臓癌]]が発覚し、倦怠感・[[腰痛]]の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で[[肝細胞癌]]と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。
* 1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。[[高血圧治療薬|血圧降下剤]]の副作用による肝内[[胆管炎]]と診断。7月に退院後はハワイで静養。
* 1987年4月20日 - ハワイから急遽帰国、直後に慶應義塾大学病院へ検査入院<ref group="注釈">この時石原を治療したチームの中に、後に[[オウム真理教]]に入信し[[地下鉄サリン事件]]などを引き起こした[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]]がいた。</ref>。5月2日に一旦退院した([[カテーテル]]治療)ものの、3日後に再入院、容態悪化(高熱)、ついには[[幻覚]]症状([[肝性脳症]])を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開する。しかし16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。
 
== エピソード ==
=== 人物 ===
(以下、呼称については「裕次郎」と記載)
==== 映画デビューについて ====
{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}}
* 父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・[[石原慎太郎]]から心配された。そんな頃に兄は[[水の江瀧子]]より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示した。瀧子水の江はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて[[日活撮影所]]へ降り立った時は素肌に[[ヨット・パーカー]]を羽織り、[[水着|海水パンツ]]に[[ビーチサンダル|ゴム草履]]履きといったいでたちに、その場に居合わせた[[宍戸錠]]と[[小林旭]]は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談{{出典無効|date=2016年10月}})。
* [[1956年]]3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった<ref>近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。</ref>。
* 『太陽の季節』のカメラマンを務めた[[伊佐山三郎]]は水の江瀧子を呼びエキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「[[阪東妻三郎|阪妻]]がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった<ref>石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊</ref>。
* 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。
 
==== 仕事に対する姿勢 ====
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* セリフ覚えが悪いことで知られ、開いた状態の[[台本]]を机の中に置いて演技を行ったこともあったが、その分、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。
* ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから<ref>以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。</ref>。
*「[[銀座の恋の物語]]」、「[[二人の世界]]」、「[[夜霧よ今夜も有難う]]」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]』には[[1957年]]・[[第8回NHK紅白歌合戦|第8回]]に[[雪村いづみ]]の応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。「歌は素人」という理由で毎年、歌手としての出場を辞退していたといわれている
* ヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌を[[カバー]]することに消極的だった時代に、積極的に他人の持ち歌(当時のヒット曲や古い流行歌など)をレコードに吹き込んだ。ただ一曲、[[梶芽衣子]]の「怨み節」のカバーについては断られたという<ref>高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1</ref>。
 
=== 性格 ===
{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}}
* 性格として今で言う[[体育会系]]の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという<ref>村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の[https://web.archive.org/web/20100104052832if_/http://muranishi-ch.com/new/news/blog.cgi?mode=main&no=86 ◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」] [[村西とおる]]日記 2009年10月9日より。</ref>。また人前で食事をすることも嫌っていた。
* 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。また、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな」という[[ポリシー]]を持っていた。
* スポーツ界や政財界などを問わず広い交友関係を楽しんだ人物で、誰かに会ったときは必ず、[[上下関係]]分け隔てなく、あいさつのときは立ち上がり、[[握手]]をするという[[礼儀]]正しさでもよく知られていた。
* 気遣いのできる優しい性格と豪快な人柄から[[石原プロモーション]]所属の俳優達からはもちろん、『[[西部警察]]』で共演した[[三浦友和]]および[[柴俊夫]]らからも『石原社長』と呼ばれていた。さらに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。また、現在でも石原プロのイベントなどで名物となっていである[[炊き出し]]は、裕次郎が考案したものである。
 
=== 趣味・嗜好 ===
{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}}
* 食べることが好きで、[[懐石]]料理・[[カレーライス]]・[[ビーフステーキ]]、[[葉山町|葉山]][[コロッケ]]等を好み、和洋中問わず好物は多かった。また、料理好きでもあり、[[別荘]]や[[ヨットハーバー]]で[[バーベキュー]]や手[[弁当]]を楽しんだ。嫌いな物は[[鶏肉]]だったという。大病後は妻の食事管理の下[[玄米]]の[[パン]]と[[野菜]][[サラダ]]のみの生活を送っていたという。また晩年には毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に[[塩分]]制限6グラム、小さじ1杯)も実行したとも言われる。
* [[喫煙|チェーンスモーカー]]であり、また大病を患う前は、休暇中には朝食に[[ビール]]を飲むほどの[[辛党|酒豪]]であった。撮影所には、「ビールは酒ではない、水である」という名分で[[冷蔵庫]]が置かれていた。また、[[赤坂東急ホテル]]のバーカウンター端の席で飲んで、その後飲食街に繰り出すことが多かった。[[大動脈瘤]]手術後は身内のパーティではビールをコップ1杯程度にしていたといわれ、喫煙も控えていたが、甥の良純によるとハワイの別荘で夫人の目を盗んでの「お相伴」に付き合わされたという。
* デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿で、私服が30003,000着ほど、トータルで50005,000着ほど作ったという<ref>さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090617_80137.html (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年6月17日</ref>。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという<ref>[https://jcc.jp/news/13706605/ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値!] - JCCテレビすべて フジテレビ【[[バイキング (テレビ番組)|バイキング]]】2018年7月19日放送</ref>。
* 兄の影響により、ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったともいわれる。
* 日本では[[力道山]][[夏木陽介]]と裕次郎の3人だけと言われる[[メルセデス・ベンツ・300SL]](〈W198〉[[ガルウィングドア|ガルウィング]]クーペのオーナーだった。一部勘違いで[[三橋美智也]]も所有と書かれることがあるが190SLの誤りである。シートは[[深紅]]。車体は[[銀色|シルバー]]<ref group="注釈">ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている。</ref>)を所有していたほか、[[ロールス・ロイス・シルヴァースピリット]]や[[キャデラック]]など複数の高級車を所有するカーマニアであった。
 
=== 交友 ===
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* 裕次郎と同じ12月28日生まれの[[渡哲也]]は日活所属だった際、1970年の映画『[[ある兵士の賭け]]』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した<ref>[<!-- https://www.fnn.jp/posts/00337930HDK -->https://sp.fnn.jp/posts/00337930HDK 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔] - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090704_80997.html (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年7月4日</ref>。
* 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた<ref>太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの([[PHP研究所]]) [[増田久雄]]</ref>。
* 当時[[放送作家]]・[[ジャズ]]評論家として活動していた[[大橋巨泉]]と映画『[[嵐を呼ぶ男]]』で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、当時大橋は[[ジャズ]]評論家・[[放送作家]]という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋巨泉は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後バラエティー番組『[[今晩は裕次郎です]]』で開始途中からに巨泉は構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は『[[11PM]]』の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。
 
=== その他のエピソード ===
{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}}
* [[1960年]]、日本の芸能界で初めて[[記者会見]]を開いた<ref>有吉弘行&劇団ひとり&ビビる大木の天才リトル(2014年3月30日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]){{出典無効|title=検証不可能|date=2016年10月}}</ref>{{出典無効|title=検証不可能|date=2016年10月}}。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後まき子であとなる北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長[[堀久作]]の説得に応じ帰国、[[東京国際空港|羽田空港]]の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。
* [[1961年]]の大けがの際、[[赤木圭一郎]]の訃報の直後に入院していたため、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ支配権下時代]]の[[沖縄県|沖縄]]の[[琉球放送]]が偽の訃報を流すというハプニングがあった。
* [[1965年]]には[[國粹会]]の[[拳銃|ピストル]][[密輸]]事件に絡み家宅捜索を受け、後に[[銃刀法]]違反で有罪となる。
* 甥の(兄・慎太郎の三男である甥の[[石原宏高]]を養子にしたがっていたとも伝えられる。
* 毎年正月には石原プロモーション所属俳優や交友のある有名人とともに[[ハワイ州|ハワイ]]で過ごすのが恒例となっており、その様子は正月特番でも放映された。'''「正月をハワイで過ごす芸能人」'''の先駆けとなった人物でもある
* 志賀高原スキー場での負傷後、療養を兼ねて信玄の[[隠し湯]]として知られる[[下部温泉]]「[[下部ホテル]]」の別館に妻とともに滞在していた。この別館は裕次郎によって「裕林亭」と名付けられ、現在も客間として提供されている。
* 主演した『[[赤い波止場]]』は[[ジャン・ギャバン]]主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『[[望郷 (1937年の映画)|望郷]]』が元ネタである。『[[赤い波止場]]』のリメイクである[[渡哲也]]主演の『[[紅の流れ星]]』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』の[[ジャン・ポール・ベルモンド]]がモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている<ref>[[洋泉社]] 2016年11月『[[映画秘宝]]コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p</ref><ref>「[[キネマ旬報]]オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より</ref>。
* 1962年、渡米した時「夢の渚」を撮影中の[[エルビス・プレスリー]]と対面した。2人が談話している写真が残されている。
* 兄、慎太郎が政界入りすると慎太郎の応援演説を行った。また[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[橋本登美三郎]]は裕次郎を慕っており[[石原プロモーション]]が抱えていた借金を全額肩代わりするから[[参議院議員通常選挙|参議院選挙]]に出馬しないかと要請したが裕次郎は断っている。
* [[向井千秋]]は外科医時代に裕次郎の担当医を務めている。この時の白衣がカンフーの道着に似ていたため、裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名をつけられたという。
 
=== その他 ===
{{出典の明記|date=2016年10月|section=1}}
1980年1月に[[成城]]の自宅([[上神明遺跡]]内)において、[[古墳時代]]の遺跡、[[土器]]が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロモーション所属俳優だった[[苅谷俊介]]は、石原裕次郎邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった<ref>[http://naraamt.or.jp/50kinki/kinenkouen.html 「土と役者と考古学」苅谷俊介] 近畿医学検査学会</ref>。
 
== 家族・親族 ==
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* 甥・'''[[石原伸晃|伸晃]]'''、'''[[石原良純|良純]]'''、'''[[石原宏高|宏高]]'''、'''[[石原延啓|延啓]]'''
 
裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて[[関連会社]][[役員]]にまで出世した人物である。累代の[[名門|名家]]とも、一代の商才で財を成した新興富裕層とも異なる、[[戦後]]の新興[[中流階級]]に属する。
 
=== 略系図 ===