「啓蒙の弁証法」の版間の差分

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テアニン (会話 | 投稿記録)
批判理論と言及の対象について
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==概要==
ホルクハイマーとアドルノは、人間が啓蒙化されたにも関わらず、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]のような新しい野蛮へなぜ向かうのかを[[批判理論]]によって考察しようとした。その考察を開始するために、啓蒙の[[本質]]について規定するものである。
 
[[啓蒙思想|啓蒙]]は、人間の[[理性]]を使って、あらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは、人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。したがって、理性は、人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。ホルクハイマーとアドルノは、このような事態を「啓蒙の[[弁証法]]」と呼んでいる。
 
そして、この事態はいくつかの側面から説明することができ、その考察にあたり[[オデュッセウス]]と[[ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え]]が言及される。人間は、外部の[[自然]]を支配するために、内面の自然を抑制することで、[[主体と客体|主体性]]を抹殺した。また、論理形式的な理性によって、達成すべき内容ある価値は、転倒してしまう。さらに、芸術においても、美は、規格化された情報の商品として、大衆に供給される。ホルクハイマーとアドルノは、反ユダヤ主義の[[原理]]に啓蒙があったと考えており、啓蒙的な支配によってもたらされた抑制や画一化の不満が、[[ユダヤ人]]へと向けられたと位置づける。
 
啓蒙の精神は、自らの本質が支配にあると自覚することで、反省的な理性を可能にするものでもある。この反省によって、啓蒙における理性と感性の融和が、可能となりうると考えられる。