「藤原宇合」の版間の差分

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その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年([[726年]])[[造宮省|知造難波宮事]]に任ぜられ、後期[[難波宮]]造営の責任者を兼ねる。神亀6年([[729年]])の[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]に際しては、[[長屋王]]の謀反に関して密告が行われると、直ちに宇合は[[近衛兵|六衛府]]の兵士を率いて長屋王邸を包囲する等、軍事面で主要な役割を果たした<ref>『続日本紀』天平元年2月10日条</ref>。なお、変での活躍にも拘わらず、既に[[藤原氏]]から2名([[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]])の議政官を輩出していた事もあり、この時点での宇合の[[参議]]昇進は見送られている。
 
[[天平]]3年([[731年]])8月に諸官人の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟・[[藤原麻呂|麻呂]]と共に参議に昇進。藤原四兄弟が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に畿内に惣管、[[五畿七道|諸道]]に[[鎮撫使 (古代日本)|鎮撫使]]が設置されると、畿内[[惣管|副惣管]]に任ぜられる(畿内大惣管は[[新田部親王]])。天平4年([[732年]])、地方軍備体制の整備を行うために節度使が置かれると、宇合は西海道[[節度使 (日本)|節度使]]に任ぜられ、九州に赴任する。赴任にあたって宇合が作成した[[漢詩]]が『[[懐風藻]]』にあり<ref>『懐風藻』93</ref>、[[高橋虫麻呂]]の見送る和歌が『[[万葉集]]』に残る。九州では軍事行動マニュアルとして「式」を整備する。約50年後の[[宝亀]]11年([[780年]])になっても[[大宰府]]に対して、宇合の式に基づいて警固を行うように[[勅令]]が出ており<ref>『続日本紀』宝亀11年7月15日条</ref>、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されていた様子が窺われる<ref>土佐[2012: 4]</ref>。天平6年([[734年]])[[正三位]]に至る。
 
天平9年([[737年]])[[平城京]]中を[[天平の疫病大流行|疫病]]が猖獗(しょうけつ)を極める中、8月5日に藤原四兄弟の最後に薨去した。享年44。最終官位は正三位参議式部卿兼[[大宰帥]]。
*神亀2年([[725年]]) 閏正月22日:[[従三位]]、[[勲等|勲二等]]
*神亀3年([[726年]]) 10月26日:[[造宮省|知造難波宮事]]
*[[天平]]3年([[730年]]) 8月11日:[[参議]]。11月22日:[[畿内]][[惣管|副惣管]]
*天平4年([[732年]]) 8月17日:[[西海道]][[節度使 (日本)|節度使]]
*天平6年([[734年]]) 正月17日:[[正三位]]
*時期不詳:[[大宰帥]]