「ラビの戦い」の版間の差分

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一方の日本軍は、今度は陸路からの[[ポートモレスビー作戦]]に着手した。ところが、すでに[[第55師団 (日本軍)#南海支隊|南海支隊]]の先遣隊がニューギニアに上陸して戦闘を始めた後の8月4日、[[大日本帝国海軍|海軍]]の[[偵察機]]により、ラビで連合軍の飛行場が発見された。[[制空権]]が奪われることを恐れた日本海軍[[第八艦隊 (日本海軍)|第8艦隊]]司令部は、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]にラビ攻略への協力を打診した。ニューギニアは陸軍の担当地区のはずであったが、8月7日に[[ガダルカナル島の戦い]]が始まってしまった事情もあり、陸軍の[[第17軍 (日本軍)|第17軍]]司令部は余裕が無いとして兵力提供を拒絶した。やむなく、海軍独力での攻略に決まり、[[一木支隊]]揚陸の成功によりガダルカナル島の戦いに目処がついたと判断された8月21日、ラビ攻略作戦は発令された。
 
当時、第8艦隊司令部では、ラビの連合軍は展開して間もない[[歩兵]]2~3個中隊程度の小兵力と推定し、陸軍部隊に比べて戦力の劣る[[海軍陸戦隊|陸戦隊]]でも勝算はあると見ていた。しかし、実際には、連合軍兵力は2個[[旅団]]以上に達していた。
 
== 参加兵力 ==
=== 日本軍 ===
*地上部隊 - 戦闘員約1600名、後方要員約360名
**呉第5特別陸戦隊(呉5特)主力 - 司令:{{仮リンク|林鉦次郎|en|Masajiro Hayashi}}[[中佐]]、兵力612名および[[九五式軽戦車]]2両
**呉第3特別陸戦隊主力-司令:{{仮リンク|矢野実 (軍人)|en|Minoru Yano|label=矢野実}}中佐、兵力576名
**佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力228名(本隊353名は別に舟艇機動の予定も到達できず。)
<!--以下、おそらく参考資料からの転記ミス**横須賀第35特別陸戦隊の1個中隊主力 - 司令:[[安田義達]]大佐、兵力約200名-->
**横須賀第5特別陸戦隊主力 - 司令:[[安田義達]]大佐、兵力約200名
**第10[[海軍設営隊|設営隊]]の一部 - [[軍属]]362名
*航空部隊 - [[零式艦上戦闘機|零戦]]約20機、[[九九式艦上爆撃機|99艦爆]]約10機がブナに展開。
***第18旅団 - 歩兵3個大隊
***その他 - [[民兵]]2個大隊、野砲1個中隊、高射1個中隊など
**アメリカ軍 - 第709[[高射砲|高射]]中隊および第43工兵連隊F中隊など(合計で約1400名
**航空部隊 - 3個飛行中隊([[P-40 (航空機)|P-40戦闘機]]約40機、[[ハドソン (航空機)|ハドソン爆撃機]]若干)のほかポートモレスビーより支援。
 
=== 日本軍の上陸 ===
[[ファイル:Japanese Landings on Milne Bay.jpg|thumb|left|200px|日本軍の行動図]]
8月24日、攻略部隊(呉5特・佐5特の一部・第10設営隊)は、輸送船「[[畿内丸型貨物船|南海丸]]」と「[[畿内丸]]」に乗船し、第18[[戦隊]](軽巡「[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]」「[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]]」)ほか[[駆逐艦]]5隻(「浦風」「谷風」「浜風」等)と[[駆潜艇]]2隻の護衛の下で出撃した。船団はラビの連合軍航空隊に発見されて空襲を受けたが、損害は軽微であった。翌8月25日夜、船団はミルン湾に到着し、抵抗を受けることなく上陸したが、誤って予定地点から10km以上も東にずれた飛行場から遠い位置への上陸となってしまった。
 
[[橋頭堡]]の防衛を佐5特と設営隊に任せ、上陸部隊指揮官の林中佐は呉5特を率いてただちに飛行場への夜襲を実行しようとした。しかしながら、一帯は沼沢地のために夜明けまでに1kmほどしか前進できず、飛行場には到達できなかった。夜襲支援のために「天龍」以下護衛艦隊が艦砲射撃を行ったが、効果は確認できなかった。空襲を避けるため、明け方までに船団と護衛艦隊は退避した。日本軍の上陸に気がついた連合軍は、8月26日早朝から航空部隊を出撃させて橋頭堡を攻撃した。これにより集積物資は全損し、海上機動用に残された[[大発動艇|大発]]も全滅してしまった。日中にはオーストラリア軍は第7旅団の第61大隊による反撃を行い、日本軍の[[斥候]]部隊を撃破したが、30名以上の損害を受けて6時間後には後退した。
 
佐5特主力部隊(353名)は、別動隊として8月24日早朝に大発7隻に分乗してブナを出撃したが、8月25日に途中のグッドイナフ島で仮泊中に空襲により大発が全て使用不能となってしまい行動することができなくなり、通信機も破損したため連絡ができず消息不明になってしまった。部隊の所在がわかったのはラビでの戦闘が終了した後の9月9日であった。
こうした状況から、持久は不可能と判断した第8艦隊司令部は、ついに撤退を決断した<ref>[[#昭和17年9月~第8艦隊日誌(2)]]p.18『(2)「ラビ」方面作戦 「ラビ」ニ於ケル呉三特、呉五特、横五特ハ相当ノ損害ヲ蒙リタルモ部隊ヲ集結シ再度攻撃移転ニ決ス、然レ共其ノ後ノ攻撃モ所期ノ成果ヲ挙グル事能ハズ遂ニ現地徹底ヲ下令ス9月5日ヲ以テ徹底ヲ完了セリ』</ref>。9月5日、収容掩護部隊として横5特を乗せた軽巡「天龍」と哨戒艇2隻が赴き、生存者の収容を行った。収容漏れがあると見られたため、翌9月6日夜にも軽巡「龍田」と駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」が湾内に突入したが、生存者は発見できなかった。日本艦隊は、オーストラリアの輸送船「{{仮リンク|アンシュン|en|MV Anshun (1930)}}」(3188[[トン数|総トン]])を撃沈し、陸上への艦砲射撃で十数名を死傷させて帰還した。当時、湾内には[[病院船]]「{{仮リンク|マヌンダ|en|Manunda}}」も在泊中であったが、病院船と判明したために攻撃対象とはならなかった。日本軍は生存者の収容が完了したと判断したが、実際には若干の取り残された日本兵があり、連合軍は数週間かけて[[掃討戦]]を行った。
 
<!-- このほか、ブナから舟艇機動するはずだった佐5特主力は、戦闘機による機銃掃射を受けて被害続出し、8月25日に途中のグッドイナフ島へ緊急上陸していた。舟艇と通信機が失われたために連絡不能となり、9月9日に[[カヌー]]による伝令が成功するまでの間、消息不明となった。[[潜水艦]][[伊号第一潜水艦 (初代)|伊1]]と大発2隻により、10月24日までに生存者全員332名が救出されたが、救出に向かう途中で駆逐艦[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]が沈没した。上陸してきたオーストラリア軍との戦闘でも十数名の死傷者が出た。-->
消息不明になっていた佐5特主力部隊の捜索は難航し、グッドイナフ島にいることが判明したのは部隊からの伝令がカヌーでブナに到着した9月9日であった。翌9月10日に駆逐艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」と「[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]」が救出に向かったが、途中で「弥生」が連合軍の空爆により沈没し、佐5特部隊の救出作戦は一時中止になった<ref>[[#昭和17年9月~第8艦隊日誌(2)]]p.18『今日迄所在不明ナリシ佐五特ハ9月9日伝令ノ連絡ニ依リ「グッドイナフ」島ノ「ワッツ」岬ニ在ル事判明セリ。9月11日弥生、磯風ハ右救援ニ赴キタルモ敵機ノ襲撃ニ依リ弥生沈没シ目的ヲ達スル能ハズ、佐五特救援ハ一時延期スルノ止ムナキニ至レリ』</ref>。9月22日に漂流中のカッターが発見され、これを収容したところ「弥生」の生存者が近くの島にいることが判明し、駆逐艦「磯風」と「[[望月 (駆逐艦)|望月]]」が現地に向かった。9月26日に梶本艦長以下「弥生」乗組員83名が救出された。この頃になると連合軍の航空機の活動が活発になっており佐5特部隊の水上艦による救出は困難視された。そこで潜水艦による救出を行うことになり、10月3日に潜水艦「[[伊号第一潜水艦 (初代)|伊1]]」(潜水艦長[[安久榮太郎]])はグッドイナフ島に到着し部隊の傷病者(71名)を収容し、次いで伊1は大発2隻を島に輸送した。部隊は追加の大発の到着を待っていたが、10月23日に島に連合軍が上陸して戦闘になったので、翌24日に大発2隻でグッドイナフ島を離脱して近くのウェレ島に渡り、ここでようやく残りの部隊(261名)は軽巡「天龍」に収容された。消息不明になってから2ヶ月後のことであった。
佐5特部隊の消息が判明する前、捜索・連絡のためにラビの近くに20名の連絡員が派遣されたがこれも消息不明になってしまい、帰還できないままとなった<ref>戦史叢書 49 633ページ</ref>。