「伊達宗倫 (登米伊達家)」の版間の差分

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訴えを受けた本藩後見役の[[伊達宗勝]]([[一関藩]]主)・[[田村宗良]]([[岩沼藩]]主)の両名は、同年5月23日に[[酒井忠清]]([[大老]])・[[立花忠茂]](前[[柳川藩]]主)の内諾を得て、野谷地の3分の2を登米領に、3分の1を涌谷領に振り分ける裁定を下した。宗倫・宗重は共に一応の不服を訴えたものの両者とも裁定に従い、同年7月に検分が開始されたが、宗勝の威を笠に着た検分役の[[今村安長]]が裁定に反して涌谷領分を5分の1未満に削り、抗議した涌谷家中に対して無礼を働いた。これに激怒した宗重が宗勝一派のそれまでの不正の数々を幕府に上訴するに至り、[[寛文]]11年([[1671年]])3月の酒井忠清邸での刃傷沙汰(狭義の[[伊達騒動]])へと発展する。この争論が騒動の最終局面への引き金となったため、宗倫の騒動における立ち位置は宗勝派の側に分類されることが多いが、宗倫は宗勝派の中心人物の一人である[[津田景康]]との間にも、寛文2年([[1662年]])に断絶した米岡白石家の旧領をめぐる争論を抱えており、単純に宗倫を宗勝派と見なすことは出来ない。
 
寛文10年([[1670年]])1月15日、前年に行われた亀千代の殿上元服への御礼のため藩主名代として江戸に赴き、4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家綱]]に拝謁したが、帰国直後に病に倒れ、2月10日に仙台で死去した。享年31。家督は同年5月に入嗣した綱宗の子・熊之助([[伊達村直|村直]])が相続した。宗倫は登米伊達家の菩提寺である[[養雲寺]]ではなく、自身が再興した寺池の覚乗寺に埋葬された。寛文12年([[1672年]])に完成した宗倫の[[廟|霊屋]](天山廟)は「[[覚乗寺高台院霊屋]]」として、[[宮城県]]より文化財指定を受けている。
 
== 系譜 ==