「ダニシュメンド朝」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[1071年]]に[[マラズギルトの戦い]]で[[セルジューク朝]]が[[東ローマ帝国]]に勝利してアナトリア半島の大部分を征服すると、[[テュルク]]系民族が次々とアナトリアに入植した。ダニシュメンドらも1071年にアナトリアの中央部に入植し支配を確立した。[[1086年]]にアナトリアを支配するルーム・セルジューク朝の初代[[スルタン]]・スライマーン・イブン=クタルミシュが殺され、[[1092年]]に[[大セルジューク朝]]のスルタン・[[マリク・シャー]]が没すると王朝の後継争いが起きアナトリア各地のテュルク系支族がスルタン位をめぐって動き出した。ダニシュメンドもこの機を利用して独立政権を打ち立てた。最初の首都は[[アマスィヤ]]だったと考えられている<ref>Fisher, p. 8.</ref>。
 
ダニシュメンドはルーム・セルジューク朝を継いだ[[クルチ・アルスラーン1世]]と度々戦った。[[1097年]]、[[第1回十字軍]]の侵攻でルーム・セルジューク朝が[[ニカイア攻囲戦|ニカイアを失うと]]、ダニシュメンド朝はルームと連合して[[ドリュラエウムの戦い]]で十字軍と戦ったが敗れている。