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== 略歴 ==
[[1945年]]の敗戦後、家族で[[日本人]]引揚者とともに樺太より脱出。[[長崎県]][[大村市]]の収容所まで行き、[[朝鮮]]への帰還を図ったが果たせず、[[札幌市]]に住む。このとき、樺太に姉を残留させたことが、その後の作品内でもトラウマとして残っていたことが語られている([[在樺コリアン]]参照)。
 
[[北海道札幌西高等学校]]から、[[早稲田大学]][[第一文学部]][[露文科]]に進学。[[早稲田大学]]時代は[[留学生]]運動の中で活動していた。大学卒業後、最初は[[朝鮮語]]による創作をめざしたが果たせず、[[日本語]]での活動を志す。[[朝鮮新報]]社などに勤めたが、その後は[[朝鮮総連]]から離れ、1969年の群像新人文学賞受賞を期に作家生活に入る。
 
[[1972年]]に『砧をうつ女』によって日本文壇初の[[外国人]]として[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞。代表作に『見果てぬ夢』『百年の旅人たち』など。
 
[[1970年]]にひそかに訪韓した後、芥川賞受賞後の[[1972年]]に再び訪韓する。このときは[[朝鮮籍]]であった。しかし、その後は長期にわたって[[韓国政府]]当局から入国を拒否される。ふたたび[[韓国]]入国ができたのは、[[1995年]]11月のことであった。その後も、国籍問題を理由に何度も韓国当局との間で入国をめぐるやりとりがあった。
 
[[1998年]]には[[金大中]]政権発足を機会に、韓国国籍を取得する。この経験と、韓国籍取得にからんで金大中政権の発足によって大韓民国は民主化したと表現した李恢成に対し、朝鮮籍を「北でも南でもない『準統一国籍』」と考える作家・[[金石範]]が批判し、両者は雑誌媒体を通して論争を繰り広げた。
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[[Category:日本の引揚者]]
[[Category:在日韓国人|り かいせい]]
[[Category:越境文学]]
[[Category:1935年生]]
[[Category:存命人物]]