「島津源蔵 (初代)」の版間の差分
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[[File:Shimazu Genzō I.jpg|thumb|初代島津源蔵]]
初代
== 生涯 ==
[[京都]]の醒ヶ井魚棚(現・[[堀川通|堀川]][[六条通|六条]]付近)で[[仏具]]の製造をしていた島津清兵衛の次男として
ここで知識を得た源蔵は[[1875年]](明治8年)[[3月31日]]に教育用[[理化学]]機器の製造を始め、[[島津製作所]]を創業した。[[1877年]](明治10年)の第一回[[内国勧業博覧会]]では[[錫]]製の医療用ブーシーを出展し、[[内務卿]]・[[大久保利通]]から[[褒状]]を受けている。また、同年に京都府は科学思想啓発のために国内初の有人[[気球]]を計画し、源蔵はその実行責任者となった。
ガス球部分には[[胡麻油]]で溶かした[[樹脂]][[ゴム]]を塗布した[[羽二重]]を用い、[[鉄|鉄くず]]と[[硫酸]]を[[樽|四斗樽]]10個を使って発生させた[[水素]][[気体|ガス]]を内部に封入した。招魂祭のある同年[[12月6日]]に[[仙洞御所]]の広場で飛行試験が行なわれ、気球は5万人の観衆の前で36mの高さまで
翌[[1878年]](明治11年)[[2月3日]]から3年間、京都府は[[ゴットフリード・ワグネル]]を舎密局に招聘・雇用した。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵にも接していた。ワグネルから送られた木製[[旋盤]]は[[島津創業記念資料館]]に現存する。また、当時のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた[[蒸留器]]が掲載されている。源蔵も後に科学教育に携わるようになり、[[1886年]](明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・[[京都教育大学]])の金工科で教職を一年間務めた。
[[1894年]](明治27年)[[12月8日]]に[[脳溢血]]のため、55歳で亡くなった。没後に長男の梅次郎が
== 略歴 ==
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*[[1877年]](明治10年) 第一回[[内国勧業博覧会]]に出品。[[気球]]の有人飛行に成功。
*[[1894年]](明治27年) [[脳溢血]]のため55歳で死亡。
== 関連項目 ==▼
*[[島津製作所]]▼
*[[島津源蔵 (2代目)]]▼
== 参考文献 ==
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*「京都と島津源蔵父子」[[大谷晋一]](『化学と教育 Vol.41(1)』日本化学会,1996年)
▲== 関連項目 ==
{{DEFAULTSORT:しまつ けんそう}}▼
▲*[[島津製作所]]
▲*[[島津源蔵 (2代目)]]
▲{{DEFAULTSORT:しまつ けんそう 1}}
[[Category:江戸時代の商人]]
[[Category:日本の実業家|造]]
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