「島津源蔵 (初代)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
画像を追加。
1行目:
[[File:Shimazu Genzō I.jpg|thumb|初代島津源蔵]]
初代'''島津 源蔵'''(しまづ げんぞう、[[天保]]10年[[5月15日_(旧暦)|5月15日]]([[1839年]][[6月25日]]) - [[明治]]27年([[1894年]])[[12月8日]])は[[島津製作所幕末]]から明治時代にかけて[[商人]]、[[実家]]また日本の[[発明家]]。没後に息子の梅次郎が後継者となり、[[島津源蔵_(2代目)|二代目・源蔵製作所]]となったの創業者である
 
== 生涯 ==
[[京都]]の醒ヶ井魚棚(現・[[堀川通|堀川]][[六条通|六条]]付近)で[[仏具]]の製造をしていた島津清兵衛の次男として、天保10年(1839年)5月15日に生まれた。家業を治め、[[1860年]]([[万延]]元年)に21歳で[[木屋町]][[二条通|二条]]に出店した。この地は[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]の船便の終点に近く、当時の重要な流通拠点であった。また、[[京都府庁|京都府]]は殖産興業のため[[1870年]]([[明治]]3年)に[[勧業場]]、[[舎密局]]などをこの付近に設立し、源蔵は舎密局に出入りするようになった。
 
ここで知識を得た源蔵は[[1875年]](明治8年)[[3月31日]]に教育用[[理化学]]機器の製造を始め、[[島津製作所]]を創業した。[[1877年]](明治10年)の第一回[[内国勧業博覧会]]では[[錫]]製の医療用ブーシーを出展し、[[内務卿]]・[[大久保利通]]から[[褒状]]を受けている。また、同年に京都府は科学思想啓発のために国内初の有人[[気球]]を計画し、源蔵はその実行責任者となった。
ガス球部分には[[胡麻油]]で溶かした[[樹脂]][[ゴム]]を塗布した[[羽二重]]を用い、[[鉄|鉄くず]]と[[硫酸]]を[[樽|四斗樽]]10個を使って発生させた[[水素]][[気体|ガス]]を内部に封入した。招魂祭のある同年[[12月6日]]に[[仙洞御所]]の広場で飛行試験が行なわれ、気球は5万人の観衆の前で36mの高さまで気球は浮上した。これによって源蔵の知名度は大きく向上したといわれる。
 
翌[[1878年]](明治11年)[[2月3日]]から3年間、京都府は[[ゴットフリード・ワグネル]]を舎密局に招聘・雇用した。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵にも接していた。ワグネルから送られた木製[[旋盤]]は[[島津創業記念資料館]]に現存する。また、当時のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた[[蒸留器]]が掲載されている。源蔵も後に科学教育に携わるようになり、[[1886年]](明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・[[京都教育大学]])の金工科で教職を一年間務めた。
 
[[1894年]](明治27年)[[12月8日]]に[[脳溢血]]のため、55歳で亡くなった。没後に長男の梅次郎が[[島津源蔵_(2代目)|2代目島津源蔵]]を襲名し、会社をいだ者となった
 
== 略歴 ==
18 ⟶ 19行目:
*[[1877年]](明治10年) 第一回[[内国勧業博覧会]]に出品。[[気球]]の有人飛行に成功。
*[[1894年]](明治27年) [[脳溢血]]のため55歳で死亡。
 
== 関連項目 ==
*[[島津製作所]]
*[[島津源蔵 (2代目)]]
 
== 参考文献 ==
27 ⟶ 24行目:
*「京都と島津源蔵父子」[[大谷晋一]](『化学と教育 Vol.41(1)』日本化学会,1996年)
 
== 関連項目 ==
{{DEFAULTSORT:しまつ けんそう}}
*[[島津製作所]]
*[[島津源蔵 (2代目)]]
 
{{DEFAULTSORT:しまつ けんそう 1}}
[[Category:江戸時代の商人]]
[[Category:日本の実業家|造]]