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戦後の日本における[[総合スーパー|スーパーマーケット (GMS)]] の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。
 
ダイエー会長・社長・グループ[[最高経営責任者|CEO]]を務める。歴任したほか、[[日本チェーンストア協会]]会長(初代、10代、14代)・名誉会長(初代)、[[日本経済団体連合会]]副会長を歴任。務めたほか、自身が設立した学校法人中内学園([[流通科学大学]])学園長理事長、財団法人中内育英会理事長も務めた。
 
名前の正式な用字は「功」ではなく「㓛」(「工+刀」、㓛:U+34DB)。
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[[大阪府]][[西成郡]]伝法町(現 [[大阪市]][[此花区]]伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれる。父は[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]](現・[[大阪大学]]薬学部)を卒業後、[[鈴木商店]]に入社し、退社後大阪で小さな薬屋をはじめた。母は神社の宮司の娘であった。祖父・栄は[[高知県]]矢井賀村(現・[[中土佐町]])の士族の家<ref>『阿陽旧蹟記』によると、「池田村(大西町ニ城跡有)、当城ハ長曽我部元親ノ家老'''中内善助'''籠城之処、天正十三酉年家政公御討入之砌責寄給フ処、城主'''善助'''ヲ始軍勢共降参シテ土州へ落行、是ニ依テ与州讃州ノ押トシテ牛田亦右衛門ニ御手勢三百騎ヲ御差添被成後ニ亦右衛門ハ掃部ト改ム」とある。中内氏は近江の中原氏の支流といわれ、中世後期に土佐に入り、長岡郡江村郷に居住した。中内藤左衛門。中内源兵衛尉。中内三安。中内三由。中内左近衛門尉がいる。</ref>に生まれ大阪医学校(現・[[大阪大学]]医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。ダイエーの(エイ)とは、祖父の名前の栄からとられたものである。
 
中内は神戸三中(現・[[兵庫県立長田高等学校]])を経て、[[1941年]][[兵庫県立神戸高等商業学校]](新制[[神戸商科大学]]の前身現・[[兵庫県立大学]])を卒業。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』のファウスト博士の嘆きを一部改変し、「神戸高商で努力して学んだ様々な哲学も、芸術も経済学も文学も、まったく役に立たなかった」という意味の[[ドイツ語]]の文句を卒業アルバムに記す<ref>佐野眞一、『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』(日経BP社、一九九八年)、九九頁。</ref>。勉強はできる方ではなく、推薦状を得ながらも試験の出来が悪く大学受験に失敗。
 
=== 戦争体験と奇跡の生還===
受験に失敗した中内は、[[1942年]](昭和17年)、日本綿花(のちの[[双日|ニチメン→双日]])に就職するも、ほどなく翌[[1943年]](昭和18年)、1月応召。広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に、[[満州国]]と[[ソビエト社会主義共和国連邦]]の国境にある[[綏芬河市|綏南]]に駐屯さらに[[1944年]](昭和19年)77月、[[フィリピン]]の混成五八旅団(盟兵団)所属となり、[[ルソン島]][[リンガエン湾]]の守備に就いた。[[七年式三十糎榴弾砲]]を運用するも[[1945年]][[1月7日]]榴弾砲が破壊される。彼の部隊は1月23日未明玉砕命令が下された直後、一四方面司令官[[山下奉文]]によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延び
 
中内が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ(自身は「下駄をはいて殴打された」と述べている<ref>佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・137</ref>)、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。しかし、身体検査で「心臓が右にあるという『[[内臓逆位]]』であることが判明したため」とも述べている<ref name="asahi">{{cite web|url=http://www.asahi.com/business/intro/TKY201209160362.html?id1=2&id2=cabcajbh|title=朝刊5面『〈証言そのとき〉ボス、ときどき僕:2 すべて自己責任』|publisher=朝日新聞社|date=2012-09-17|accessdate=2012-09-18|archiveurl=https://archive.is/20130425002118/http://www.asahi.com/business/intro/TKY201209160362.html?id1=2&id2=cabcajbh|archivedate=2013年4月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また、ゲリラ戦では、米軍基地を襲撃した時、米軍が[[石油発動機]]で[[アイスクリーム]]を作っていたことに衝撃を受けたと述べている<ref>佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・166</ref>。敵から[[手榴弾]]の攻撃を受け、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃って[[すき焼き]]を食べている光景が頭に浮かび、「もう一回腹いっぱい[[すき焼き]]を食べたい」と思ったという。この様に、彼にとって[[第二次世界大戦]]での戦争体験は、[[1945年]](昭和20年)8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て、11月に奇跡的に神戸の生家に生還するまで、後の人生観ダイエーの企業理念にも影響を与えた。
 
後年、㓛は[[中央公論新社|中央公論社]]から対談の謝礼を聞かれたとき、「キミとこ、[[大岡昇平]]さんの全集出してんねやな。もしよかったら、その全集くれへんやろか」と頼んでいる。大岡は㓛と同時期にフィリピンで従軍した体験を持ち、『[[野火 (小説)|野火]]』『[[レイテ戦記]]』などの優れた戦記文学を残している<ref>佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫 p・159</ref>。
 
「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」との言葉は、この時に痛感した日本軍と米軍との物量の差と飢餓体験から出ている。また、中内は[[毛沢東]]の[[矛盾論]]の影響も受けていた<ref>中内功『わが安売り哲学』1969年</ref>。
 
1945年(昭和20年)1111フィリピンから復員。復員を機に、神戸市兵庫区にあった実家サカエ薬局)に、[[1948年]](昭和23年)、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。旧制[[神戸経済大学]](現・[[神戸大学]])に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、学費未納のため除籍(なお、勲一等を受勲した際に卒業扱いとなった)<ref>[[恩地祥光]]『中内功のかばん持ち』2013年</ref>。6年後の[[1951年]](昭和26年)88月には、次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」(店名は実家の屋号でありかつ祖父の名前から採用した)で勤務<ref>会社としてのサカエ薬品株式会社はのちに「株式会社サカエ」に商号変更し、ダイエーと同じくスーパーマーケットに発展。[[2001年]]11月1日に[[会社分割]]にて同名の新設法人[[グルメシティ近畿|株式会社サカエ]]に事業を承継するまで、「サカエ」の店名でスーパーマーケットを展開していた</ref>。
 
=== ダイエー設立・昇龍の頃 ===
サカエ薬品を離れ、[[1957年]]4月10日に神戸市[[長田区]]を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入。ただたが、すぐに撤退する。同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長[[吉田日出男]]の要請を受けて、[[小倉北区|小倉]]に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「[[主婦の店]]」の名称を加盟費抜きで貰う。<ref>佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・238〜239</ref>[[9月23日]]この会社にて大阪市[[旭区_(大阪市)|旭区]]の[[京阪本線]][[千林駅]]前([[千林商店街]]内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店ダイエー薬局」(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し[[1974年]]まで営業)を開店した。当初は今日現代の[[ドラッグストア]]に相当する薬局で、後に食料品へと進出していった。
 
千林での開店の翌年[[1958年]]には、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開店。既成概念を次々と打ち破り、[[流通|流通業界]]に革命をおこした。特に[[価格破壊]]は、定価を維持しようとするメーカー勢力の圧力に屈せず、世の人の喝采を浴びた。[[1956年]]の[[経済白書]]で「もはや戦後ではない」とされたが、戦時中の国家統制がさまざまな規制の形で残り、中内は「戦後はまだ終わっていない」とした。
 
[[1962年]]、大手商社日商(のちの[[双日|日商岩井]])の協力のもと、渡米。現地の流通業を研究する。そのとき当時の中内について、日商仕事ぶり入江義雄(のちダイエー副社長)それこそ寝る間を惜しんでの流通業界研究と商取引にあたっていた。「とにかく、好奇心のかたまりでした」<ref>佐野真一「カリスマ」上巻 新潮文庫p・337</ref>と同行した日商の入江義雄(のちダイエー副社長)は証言しており、入江は中内の姿勢に感服して後年ダイエーに入社した。また、[[シカゴ]]の大手流通企業「シティ・プロダクツ・コーポレーション」(CPO)との提携を結ぶ代わりに、経営の知識情報をタダで教えろという無茶な要求を行い、ついにはCPO経営者の[[ユダヤ人]]が「・・・眉間にしわを寄せたまま、両手をあげてもうお手上げだ、というジェスチャーをし、『わかった。何もかもみんなもっていけ』と、吐き捨てる様に言った。帰り際、老ユダヤ人は早口の英語で、通訳の入江にこう耳打ちした。『中内はいまにどえらい男になる。』」<ref>佐野真一「カリスマ」上巻p・337〜338</ref>というに至るほど精力的に活動した。
 
=== 価格破壊 ===
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そのきっかけが1960年発売の「ダイエーみかん」や1961年発売の「ダイエーインスタントコーヒー」などで<ref>{{Cite web |url=http://www.data-max.co.jp/2009/11/pb1.html |title=PB(プライベートブランド)がもたらした功罪(1):|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース |publisher=[[データ・マックス]] |date=2009-11-17 |accessdate=2018-06-01}}</ref>、これらは1970年代の「ノーブランドシリーズ」や「キャプテンクックシリーズ」を経て「セービングシリーズ」に発展し、ダイエーの旗艦ブランドとなる<ref>{{Cite web |author=崔相鐵([[流通科学大学]]総合政策学部教授) |url=http://www.hyogokccj.org/wp-content/uploads/2015/02/d51ae9613432f04488e965cc272047c6.pdf |title=【マーケティング的思考のすすめ パート20】日本におけるPB商品ブームの歴史〜ダイエーの上場廃止に際して |format=PDF |publisher=一般社団法人 在日韓国商工会議所 兵庫 |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
 
[[1964年]]、松下電器産業(現・[[パナソニック]])とテレビの値引き販売をめぐって「[[ダイエー・松下戦争]]」が勃発した。当時、ダイエーが松下電器の製品を[[希望小売価格]]からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器側は仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。この時の[[松下幸之助]]の考えである「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に定価([[希望小売価格]])を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」であった。これを受けてに対し、ダイエーは松下電器を相手取り、[[独占禁止法]]違反の疑いで裁判所に告訴した。
 
[[1965年]]3月[[花王|花王石鹸]]がダイエーへの出荷を停止したため7月、[[花王石鹸]]を公正取引委員会に提訴。ダイエーは[[第一工業製薬]]と提携しナショナルブランドより2~4割安い洗剤「スパット」を販売した。最終的に「[[ダイエー・花王戦争]]」は住友銀行の斡旋で[[1975年]]に和解し、取引再開するした
 
[[1970年]]、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動決議した。同年に、[[公正取引委員会]]が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。同じ時期、ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で当時としては破格の安さである5980059,800円で販売したことから、松下との対立が激化した<ref name="日本総研" />。
 
松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかった<ref name="日本総研" />。
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この対立は、松下幸之助没後の[[1994年]]に松下電器が折れる形で和解<ref>同年に合併した[[忠実屋]]が従前より松下電器との取引関係を有しており、その関係をダイエーが合併後も事実上引き継ぐことで取引が復活する形となった。詳細は忠実屋の項を参照。</ref>となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。
 
その他、価格破壊では食品などが代表格とされている。ダイエーの企業テーマである「For the Customers よい品をどんどん安く消費者に提供する」の実現に向け、「既存価格を破壊することがダイエー(主婦の店・大栄)の存在価値にある」と考えて実行に移た。たとえば牛肉の場合普通の店では100g当たり一般で100円。安くても70円が平均だったところ牛肉を39円と思い切って値下げして販売したところ、牛肉コーナーには主婦らが殺到し売り切れ店が続出するほどだった。この欠品状態を補充すべく、生きた牛を買い取ってそれを枝肉に加工したり、さらには日本本土復帰前の[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ施政権下の沖縄]]には輸入関税がかからないことを利用して[[オーストラリア]]産の子牛を沖縄に輸入・飼育したうえで日本国内に輸入するというアイデアを生み出した<ref name="日本総研" />。
 
=== グループ拡大に奔走 ===
[[1972年]]には[[百貨店]]の[[三越]]を抜き、[[小売|小売業]]売上高トップにまでのしあげた。[[1980年]][[2月16日]]に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。
 
また、紳士服の[[ロベルト (紳士服)|ロベルト]]、[[ファミリーレストラン]]の[[アークミール|フォルクス]]、[[ファーストフード|ハンバーガーチェーン]]の[[ウェンディーズ]]・[[ドムドムハンバーガー]]、[[コンビニエンスストア]]の[[ローソン]]、百貨店の[[プランタン銀座]]など子会社・別事業を次々と展開していった。また、イチケンや[[リクルートホールディングス|リクルート]](現・リクルートホールディングス)、[[忠実屋]]、[[ユニード]]などを買収(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)、[[1981年]]には[[高島屋]]の株式を10.7%分・取得した。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。ミシンの割賦販売で実績のあった[[リッカー]]の再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンス(現・[[セディナ]])に導入した。
 
一兆円達成から3年後の[[1983年]]から三期連続で連結赤字を出してしまいたが、[[ヤマハ]]の社長であった[[河島博]]を総指揮官とし、業績をV字に回復させる通称「V革」を行った
 
=== 絶頂期 ===
[[1988年]]には[[パシフィック・リーグ]]の南海ホークスの株式を[[南海電気鉄道]]から買収して[[日本プロ野球|プロ野球]]業界へも参入、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]を誕生させ、さらに[[東京ドーム]]を凌ぐ大きさである[[福岡ドーム]]の建設に着手するなど、グループを急拡大させた。このとき、中内はホークスについてよく知るためホークスを扱った漫画『[[あぶさん]]』の作者・[[水島新司]]とホークスについて対談した。
 
[[1988年]]4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった[[流通科学大学]]を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設[[新神戸オリエンタルシティ]]を誕生させた。また、[[1991年]]には[[経済団体連合会|経団連]]副会長に抜擢。それまで、製造業や銀行などの、他業種より格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。
 
しかし息子たちに跡を継がせたいことなどで、他社からヘッドハントした人材も含む部下を辞職に追い込み、周囲を自分に近いイエスマンで固めるなど、ワンマン体制の弊害が露呈してしまう一面もあった。
 
=== 凋落 ===
[[1990年代]]後半になって、[[バブル崩壊]]により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾き始めた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらにしたほか、展開していたアメリカ型[[ディスカウントストア]]のハイパーマート経営に失敗した。当時の消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代の流れに遅れをとった。
 
90年代後半には、ジャスコを経営する[[イオン (企業)|イオン]]、ローソンのライバルである[[セブン-イレブン]]の当時の親会社[[イトーヨーカ堂]]などが小売業界をリードするようになっており、当時の世間からは「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。
 
{{Quote|ダイエー創業者の中内功氏は「私とコンピューターとパートがいればいい」と語り、社員をグループ企業に大量出向させたことがある。人心は離れ、本体の業績は傾いた。8時間労働のパートの勤務体系を休憩(1時間)の必要のない4時間刻みにすると、長く働きたい優秀なパートは同社を去り業績は一段と悪化した。|田中陽「経営の視点」([[日本経済新聞]]、2017年8月28日)}}
 
=== 阪神・淡路大震災 ===
業績が低迷する中で[[1995年]][[1月17日]]5時46分[[阪神・淡路大震災]]が発生。東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。国をとり、政府より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。そのため、大災害が起きた際には暴動が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーが根付く神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。しかし一方で、この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店もの店舗が被災するなど、関西発祥のダイエーグループの金銭的被害は甚大で、バブル崩壊のさなかで業績が低迷しつつあったダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。ダイエーの正社員も、この震災により判明しただけで30名以上亡くなっている。
 
「スーパーはライフラインである」中内のこのという哲学により、阪神・淡路大震災では、地震発生3日後には自ら被災地神戸に乗り込み、自前のネットワークを駆使して必要な物資の輸送をおこない、営業時間の延長被災した店舗前での物販販売などを特例的に行政当局に認めさせ、被災地への迅速な物資の供給・販売を実した。
 
「店の明かりをつければ、それだけで被災者たちは力が出る」「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り店を開け続けろ。流通業はライフラインや」の号令の元、電力供給が出来ているダイエーローソンなどの照明を24時間点灯し続け、被災地を勇気づけた。この中内の哲学が現在は、イオン傘下となって以降のダイエーにも例外なく引き継がれており、[[東日本大震災]]でも、東京のダイエー本社(東京都江東区)が地震発生後すぐに対策本部を設置、東北の被災地に所在するダイエー仙台店は迅速に営業再開することが可能となった。
 
=== 晩年 ===
2001年、経営悪化の責任を取り、「時代が変わった」としてダイエーの代表取締役を退任。しかし遅すぎた決断であり、あらゆる部門で問題中内露呈してい退任表明を行っ。最後同年の株主総会では、厳しい質問が続き、2時間36分と長時間行われる大荒れ会となった。そので、勇退の辞として内は過ちを認め株主に謝罪した後まだ総会が終わっていないも関わらず壇上を降りて去ってしまう一幕があり、会場はあっけにとられたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがり、って再登壇し中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。その同日午後には、退任する中内と新経営陣の[[高木邦夫]]がそろって記者会見を開いた。その席上、中内は完全に経営から退くことを表明。2002年に[[プランタン銀座]]の最高顧問職、[[リクルートホールディングス|リクルート]]の名誉会長辞し、ダイエーグループから退いた。
 
その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人[[中内学園]]学園長に専念。[[2000年]]に流通科学大学職員がダイエーからの出向から大学籍になり、った。新神戸オリエンタルシティも[[2004年]]に売却されダイエーの手から離れた。以降も、個人の資産管理会社などを含む中内家が主要はダイエーグループの主と式を保有続け、ダイエーグループに存在しの主要株主であった。
 
[[2004年]]12月には中内家の資産管理会社3社(マルナカ興産など)特別清算を開始。芦屋と田園調布にあった所持する全株式を売却処分し、私財からダイエー関連資産を一掃したことで、名実ともにダイエーと決別した。翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後神戸市内の病院で定期健診中に[[脳梗塞]]で倒れ、療養中の9月19日午前9時30分に転院先の神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸市立医療センター中央市民病院|神戸市立中央市民病院]]において死去、83歳没<ref name="nikkei" />。倒れてから亡くなるまで、意識が戻ることはなかったという
 
2005年8月26日、流通科学大学を視察した後、神戸市内の病院で定期健診中に[[脳梗塞]]で倒れ、療養中の9月19日午前9時30分、転院先の神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸市立医療センター中央市民病院|神戸市立中央市民病院]]において死去。83歳没<ref name="nikkei" />。
逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができずに大阪市此花区の中内家が眠る[[正蓮寺 (大阪市此花区)|正蓮寺]]にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬で行われ、[[林文子]]会長(当時)ら経営陣は参列したが、ダイエーは、当時の状況(産業再生機構入りし再建中)も踏まえた上で社葬を行わなかった。
 
逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができず大阪市此花区の中内家が眠る[[正蓮寺 (大阪市此花区)|正蓮寺]]にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬で行われ、[[林文子]]会長当時)らのダイエー経営陣は参列したが、ダイエー本社としては、当時の状況(産業再生機構入りし経営再建中)も踏まえた上あることもあり、社葬を行わなかった。
しかし、逝去して7日後の9月27日に、中内がオーナーを務めたダイエーホークスの後身、[[福岡ソフトバンクホークス]]と、対戦相手であった[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の選手・関係者が[[福岡ドーム]]でのプレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を込め1分間の黙祷を行った。当日の試合ではソフトバンクが勝利している。なお、中内の死に関して福岡ドームの電光掲示板にはこう表示された。
 
しかし、逝去して7日後の9月27日に中内がオーナーを務めたダイエーホークスの後身、[[である福岡ソフトバンクホークス]]と、対戦相手であった[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の選手・関係者が[[福岡ドーム]]でのプレー前にファン・観戦者と共に感謝の意を込め1分間の黙祷を行った。当日の試合ではソフトバンクが勝利している。なお、中内の死に関して福岡ドームの電光掲示板には「ありがと!!中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください」と表示された。
{{Squote|ありがとう!! 中内功さん 福岡はあなたを忘れません 安らかにおやすみください}}
 
更に、日本の流通業界の先頭を走った中内の社葬やお別れの会が行われなかったことにより、このまま終わるのは忍びないと、[[イトーヨーカ堂]]創業者の[[伊藤雅俊 (1924年生の実業家)|伊藤雅俊]]、[[イオン (企業)|イオン]]創業者の[[岡田卓也 (経営者)|岡田卓也]]、日本におけるスーパーマーケットの育ての親でもあった[[渥美俊一]]、自身も立ち上げに携わった[[日本チェーンストア協会]]など好敵手でもあり中内と共に戦後における流通業界の黎明期を築いた戦友小売・流通業関係者が発起人となって、同年12月5日に[[ホテルニューオータニ]]にて「お別れ会」が開かれた。23002,300人が献花に訪れ、生前親交のあっ[[安倍晋三]]、[[二階俊博]]、[[小池百合子]]、[[小沢一郎]]、[[冬柴鐵三]]、[[神崎武法]]などの政界人も参列した。
 
== 評価 ==
=== 功績 ===
事実上、ダイエーグループを経営不振に陥らせたとはいえ、欧米型の[[総合スーパー|スーパーマーケット]]を中心とする大型商業施設・外食産業を戦後日本で普及させ、消費者主体の流通経営、神戸や福岡など日本各地の都市計画への尽力、災害時のフォロー(阪神・淡路大震災、東日本大震災)などで、日本社会に大きく貢献した点は現在でも高く評価されている。また家業であった小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを創業し、一時はダイエーを連結売上高3兆円超、関連企業を含んで6万人以上の従業員を抱えた、売上日本一の商業集団に育て上げたのも事実である。中内とほぼ同年代で親交があった[[ライフコーポレーション]]創業者の[[清水信次]]や、衣料品に価格革命を起こした[[ユニクロ]]社長の[[柳井正]]等を筆頭に、現在でも中内の考えに影響を受け、中内を尊敬する経営者や起業家は多い。
 
1960年代に中内ダイエーが紆余曲折しな大規模な流通システムを構築するまでは、「市場流通価格」はメーカーが完全に操作しており、消費者の立場は弱く「価格生産者であるメーカーが勝手に決めるのが基本であった。今り、現代では当たり前の「良い品を安く買えるお店がいつもそこにある」「良い品を安く売ってくれる店こそが消費者の味方」というような発想さえなかった。メーカーにしか価格決定権がなく、メーカー以外の小売業や消費者の立場が大変弱かった時代の1960年代から、中内は独自のやり方で良い品、高所得者でないと買えない高級品(テレビなど)や一般主流品を、消費者の為にメーカー製造品と同じレベルの品質で、通常の市場価格よりずば抜けた低価格でプライベートブランドから販売した。
 
今では当たり前になり種類も豊富になったプライベートブランドは、ダイエーが[[1961年]]に日本で初めて製造販売し当時も大人気を博した。そして、「For the customers」(お客様のために)というダイエーのスローガンと共に、死去するまで消費者の権利、庶民への豊かさの提供、小売業の流通革命の存在意義と価値上昇に奔走し続けた。
 
福岡ダイエーホークス発足に際し、福岡にホームグラウンドを移し、当時は話題性の薄かった九州、福岡市の都市開発にも大きく貢献した。日本で初の開閉型ドーム球場を建設し九州にホークスの人気を定着させた。チームの低迷期には「同好会は終わった」と書かれた横断幕を送った。福岡ドームには以前のダイエーのスローガンでもあった「For the customers」と書かれた中内直筆の色紙が今でも飾ってある。
 
「流通王」、「カリスマ」とも呼ばれ、[[1993年]]に流通業界出身初の[[勲一等瑞宝章]]を受章<ref>「93年秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、帰化邦人、外国人の受章者」『読売新聞』1993年11月3日朝刊</ref>。[[1984年]]に[[レジオンドヌール勲章]]を、[[2000年]]にイサベル女王勲章を受章<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%86%85%E3%93%9B-155242 |title=中内㓛|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|accessdate=2017年12月11日 }}</ref>した。
 
=== ホークス株 ===
長年、ホークスのオーナーを務めた中内だが、ダイエーグループの経営から完全に手を引いた時期に、次男の中内正に、自身が所有していたホークス株を1株1円にて譲渡した。その当時、「非上場株式であることを利用し不当に安く見積もった課税逃れではないか」といった批判などが各メディアで報道された。なお、ホークス本拠地の地元にてファンにこの件でインタビューした際はマスコミとは裏腹に歓迎の声があり、すぐに批判も収束した。
 
== 人物 ==
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== 家族・親族 ==
ダイエーに関係する職に就いたのは祖父の栄、妻の萬亀子、長女の綾を除く全員である。
 
=== 中内家 ===
; 祖父・栄
: 高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の家に生まれ大阪医学校(現・大阪大学医学部)に学び卒業後、神戸で眼科医となった。
; 父・秀雄
: サカエ薬局創業者→ダイエー初代会長
: 㓛が後に創業するダイエーの前身ともなったサカエ薬局の創業者であり、ダイエー創業後は会長に就任した。
; 弟(次男)・傅
: サカエ薬局社長
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: 㓛がダイエーを創業後に所属していたサカエ薬局から転籍しダイエー専務取締役に就いたが、㓛と経営方針で対立し[[1969年]]ダイエーを退社。後にシンエーフーヅ株式会社ならびに神戸[[ポートピアホテル]]を設立。
: 2012年12月15日に急性心不全の為に死去。81歳。
; 子(長男・潤
: ダイエー副社長→ダイエーホールディングコーポレーション社長→学校法人中内学園理事長
; 孫・希
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; 婿・[[浅野昌英]]
: 綾の夫。ダイエーグループであった[[イチケン]]元社長<ref name="四国新聞社">[http://www.shikoku-np.co.jp/national/economy/20020415000535 ダイエーがイチケン株売却/中内氏女婿の浅野社長退任] [[四国新聞社]]、2002年04月15日。</ref>。2002年04月15日、ダイエーがイチケン株を[[東洋テクノ]]に譲渡したため6月末で退任。現在は浅野アソシエイツ代表。
; 子(次男・正
: [[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]オーナー→[[読売ジャイアンツ]]オーナー顧問→財団法人中内育英会理事長
 
'''中内氏'''