「マグナ・カルタ」の版間の差分

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== 概要 ==
[[ブーヴィーヌの戦い]]でフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めた。[[1215年]][[6月19日]]、貴族たちの要求をまとめる形で[[サリー]]近郊の[[ラニーミード]]において制定された。これにより、イングランドにおいて[[法の支配]]が初めて確認されることになった。[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]がジョンと衝突し破門、その後赦免した際に勅令により一旦無効とされたものの、その後復活し数度改正されている。[[1225年]]に改正された[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]によるマグナ・カルタの一部は、現在の[[イギリス]]においても[[イギリスの憲法|憲法]]を構成する法典の一つとして効力を有する
[[1215年]][[6月19日]]、貴族たちの要求をまとめる形で[[サリー]]近郊の[[ラニーミード]]において制定された。これにより、イングランドにおいて[[法の支配]]が初めて確認されることになった。その後マグナ・カルタは、[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の勅令により無効とされたものの、その後復活し数度改正されている。
[[1225年]]に改正された[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]によるマグナ・カルタの一部は、現在の[[イギリス]]においても[[イギリスの憲法|憲法]]を構成する法典の一つとして効力を有する。
 
マグナ・カルタの理念は、その後しばらくの間忘れ去られていたが、国王と議会が対立した[[17世紀]]に再度注目されるようになり、[[エドワード・コーク]]卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。また、[[清教徒革命]]や[[アメリカ独立戦争]]の根拠ともなった。[[2009年]]、マグナ・カルタは[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の『[[世界の記憶]]』に登録された。