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=== ドイツ労働者党 ===
敗戦後の1919年1月5日、ターフェルの慫慂(しょうよう)により[[ディートリヒ・エッカート]]、[[ゴットフリート・フェーダー]]、[[カール・ハラー]]と共に[[ドイツ労働者党]](DAP)を設立{{sfn|Kershaw|2008|p=82}}。ハラーが党議長に就任するが名誉職に過ぎず、実質的な権限は副議長のドレクスラーが握っていた{{sfn|Kershaw|2008|pp=82, 83}}<ref>Vgl. Ian Kershaw: ''Hitler. 1889–1936.'' Stuttgart 1998, S. 184.</ref>。同月に「国際[[プロレタリアート|プロレタリア]]の挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表。続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表したが、このパンフレットは当時復員してミュンヘンにいた[[アドルフ・ヒトラー]]に影響を与えたという。
 
1919年9月にミュンヘンで集会を開くが、その際に演説した{{仮リンク|アダルベルト・バウマン|de|Adalbert Baumann}}教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた{{sfn|Kershaw|2008|p=75}}。ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した{{sfn|Stackelberg|2007|p=9}}{{sfn|Mitcham|1996|p=67}}。
 
1920年1月5日にヒトラーとドレクスラーによってハラーが党議長を追放され、ドレクスラーが党議長に就任した<ref>Shirer, ''The Rise and Fall of the Third Reich'', p. 36</ref>。フェーダーと共にヒトラーに協力して綱領を策定したドレクスラーは、1920年2月24日、ドレクスラーはヒトラーを[[ホフブロイハウス]]で開催する党大会に参加させ、ヒトラー主導の下で[[25カ条綱領]]が発表され、党名を[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP)と改名した{{sfn|Kershaw|2008|p=87}}。
 
=== ナチ党 ===