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{{Infobox baseball player
|選手名 = 本間 満
|所属球団 = [[ダイエーホークス|ダイエー]]、[[ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]
|所属球団 =
|背番号 = 10
|選手写真ファイル名 = SH-Mitsuru-Honma.jpg
|写真のコメント = ソフトバンク時代<br />(2008年7月10日、阪神鳴尾浜球場にて)
|体重 = 78
|利き腕 = 右
|打席 = 右、のちに
|守備位置 = [[内野手]]
|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1994}}
|最終出場 = NPB / 2009年8月8日
|経歴 =
*留萌かもめ幼稚園
*[[留萌市立沖見小学校]]
*[[留萌市立港南中学校]]
* [[駒澤大学附属岩見沢高等学校]]
* [[駒澤大学]]
 
[[大村巌]](元[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]:[[稚内市]]出身)、[[宇佐美康広]](元[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]:[[歌登町]]出身)が引退して以降の[[日本プロ野球]](以下:NPB)現役選手としては、[[五十嵐亮太]](現ヤクルト)らと共に最北の出身であった。<ref group="注">留萌市出身では他に[[若松勉]](元ヤクルト)など。</ref>
プロ入り後に左打ちに変えて成功した珍しい例である。
 
== 経歴 ==
留萌沖見小学校(沖見ニュースターズ)時代は[[投手]]、留萌港南中で強打の[[三塁手]]として注目を集め、[[北海高等学校|北海]]、札幌商(現[[北海学園札幌高等学校|北海学園札幌]])、[[東海大学付属第四高等学校・中等部|東海大四]]などとの争奪戦の末、[[駒澤大学附属岩見沢高等学校|駒大岩見沢高校]]に進学した。同級生に[[伊藤辰史]]、3年後輩に[[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]がいる(佐藤は[[山形県]]生まれ北海道[[千歳市]]育ち)。また家族は親族とも代々野球部員である。
 
[[第62回選抜高等学校野球大会|甲子園]]では結果を残せなかったが、付属校推薦で入学した[[駒澤大学|駒澤大]]では春休みの練習から長打を連発し、甲子園で3本塁打の[[高木浩之]]([[享栄高等学校|享栄]]-[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])らを飛び越して一軍Aチームのレギュラーに大抜擢された。期待に応え順調に育ち、鉄壁の[[遊撃手]]として高木浩之と三遊間を組んだ。4年次には高木と共に全日本代表に選出された。同期のエース[[河原純一]]らと駒澤大学の[[全日本アマチュア野球王座決定戦]]制覇に貢献。東都大学リーグ通算81試合出場、243打数58安打、打率.239、1本塁打、24打点。ベストナイン1回受賞。
 
[[1994年]]ドラフト3位で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に入団。[[王貞治]]が監督に就任した第1期の選手である。
当時は駒大に推薦入学が決まっていた城島を1位で強行指名した見返りに、ヤクルト下位指名が濃厚だった本間を上位指名したと噂された。<ref>94年11月18日スポーツニッポン朝刊「ダイエー“20年に1人の大型捕手”城島健司を強行指名」</ref>
 
=== ダイエー・ソフトバンク時代 ===
 
{{by|2000年}}は[[浜名千広]]や[[柳田聖人]]の負傷もあって後半に二塁手のポジションを確保し、277打席で打率.261、二塁打9本とまずまずの成績を残し、優勝に貢献。[[イチロー]]にタイミングの取り方が似ていることから「パチロー」という愛称も付いた。
 
毎年春季キャンプ中の紅白戦やシートバッティングで同じチーム内の投手から必ずヒットやホームランを打つため、投手陣からは「'''味方殺し'''」と呼ばれていた([http://wing.softbankhawks.co.jp/ex/camp/report/2009/02/0221-05.html キャンプレポート-宮崎春季キャンプ2009]福岡ソフトバンクホークス)。
 
{{by|2001年}}は井口資仁が二塁手からコンバートして台頭したため、一転して29試合59打席の出場に終わった。
 
{{by|2002年}}は開幕を遊撃手で迎えたが、故障のため32試合の出場にとどまり、中日から移籍してきた[[鳥越裕介]]に遊撃手のポジションを譲った。
{{by|2003年}}は開幕からショート鳥越、サード川崎控え遊撃手で迎えた。控え内野手として88試合143打席の出場を果たした。[[阪神タイガース]]との[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]制覇にも貢献した。
 
{{by|2004年}}はショート、開幕時は移籍した小久保後任のサードを川崎と争っていたが、4月半ばにレギュラーとなった[[ポジションを獲得し、川崎宗則]]に代わってサは鳥越からショトのポジションを奪った。終盤ま出場し、打率3割を超え、規定打席到達まであと一歩のところまで来たが、また終盤調子を落としたことで起用が急減し打率.290に終わった。
{{by|2003年}}は開幕を鳥越の控え遊撃手で迎えた。控え内野手として88試合143打席の出場を果たした。[[阪神タイガース]]との[[2003年の日本シリーズ|日本シリーズ]]制覇にも貢献した。
チームのレギュラーシーズン1位に貢献したもののプレーオフで西武に2勝3敗で敗れ、論議を呼んだ。
この年のサードは①本間280打席で打率.290、②[[吉本龍生|吉本]]が118打席で打率.200、③[[田中瑞季|瑞季]]が94打席で打率.250、④鳥越が85打席で打率.259、⑤[[稲嶺誉|稲嶺]]が26打席で打率.125、⑥明石が5打席と本間以外は打撃に課題が有った。
 
{{by|2005年}}は移籍した井口に代わり開幕からセカンドで出場したカブレラからレギュラー出場を奪った。序盤はリーグの最多二塁打、最多三塁打を放つなど活躍したが終盤調子を落とし、中盤以降はセカンドカブレラ、サードズレータ、ショート川崎の控えに甘んじ規定打席には到達しなかった。
{{by|2004年}}はショートのレギュラーとなった[[川崎宗則]]に代わってサードで出場し、打率3割と規定打席到達まであと一歩のところまで来たが、また終盤調子を落としたことで起用が急減し打率.290に終わった。
チームはロッテにプレーオフで敗れたものの、この年ポストシーズンの勝率9割近かったロッテ(ペナントプレーオフ対西武2勝、対ソフトバンク3勝2敗、対阪神4勝、アジアシリーズ7勝)にポストシーズンで勝利を奪った(2勝)唯一のチームとなった。
この年の内野陣は①[[トニー・バティスタ|バティスタ]]591打席(.263、27本.90打点)、[[ホルベルト・カブレラ|カブレラ]]505打席(.297、8本、58打点)、②川崎458打席(.271、4本、36打点、21盗塁)、③本間227打席(.262、2本、21打点)、④鳥越158打席(.237、0本、17打点)、⑤稲嶺54打席(.222、0本、4打点)、⑥吉本6打席(.250、0本、0打点)で有った。
 
{{by|2006年}}は控え内野手としてシーズンを迎えたが、4月後半、ゴールデンルーキーの松田からサードのポジションを奪った。
{{by|2005年}}は開幕からレギュラー出場。序盤はリーグの最多二塁打、最多三塁打を放つなど活躍したが終盤調子を落とし、規定打席には到達しなかった。
交流戦を終えて打率はリーグ3位の.319を記録し、首位打者争いにも顔を出すほど活躍した・
交流戦中には鳥越からセカンドのポジションを奪い、そのままセカンドに定着した。
二塁手部門で投票で選ばれた初の[[2006年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場した際は[[代打]]で登場した[[清原和博]]の代わりに[[左翼手]]として出場。
初めてシーズンを通しての活躍を見せ、打率3割を達成するかと思われたが中盤以降急激に調子を落とし、王監督の休養後は森脇監督代行の構想から外れ、若手の森本、[[仲澤忠厚|仲澤]]や新人の[[本多雄一]]に出場機会を奪われ、終盤以降出場機会が減少し、結果的に規定打席にも30打席ほど到達せず、打率3割も逃した。
この年の内野陣は川崎がショートに固定した以外は規定打席に達した者がおらず、次の成績だった。
①川崎513打席(.312、3本、22打点、24盗塁)、②カブレラ375打席(.260、8本、50打点)、③本間374打席(.244、2本、30打点、1盗塁)、④松田220打席(.211、3本、18打点)、⑤本多112打席(.245、2本、8打点、2盗塁)、⑥森本87打席(.205、0本、3打点、2盗塁)、⑦仲澤84打席(.171、2本、9打点)、⑧稲嶺65打席(.196、0本、4打点、1盗塁)、⑨吉本44打席(.250、0本、7打点)、⑩鳥越34打席(.243、0本、0打点)、⑪[[江川智晃|江川]]43打席(.190、0本、5打点)、⑫[[金子圭輔|金子]]7打席(.143、0本、0打点、1盗塁)だった。
 
{{by|2007年}}は、森脇監督代行の構想から外れ、起用がほとんどなかったが、王監督の復帰後にスタメンが増えたが、代打で2試合連続本塁打など、代打での打率(32-11 .344)が高いことから代打での起用が多かった。代打起用38回はリーグ最多。7月13日に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を得たが行使しないと明言した。
{{by|2006年}}は控え内野手としてシーズンを迎えたが、外野にコンバートされた[[ホルベルト・カブレラ|カブレラ]]に代わってレギュラー出場。交流戦を終えて打率はリーグ3位の.319を記録し、首位打者争いにも顔を出すほど活躍し、初の[[2006年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場した際は[[代打]]で登場した[[清原和博]]の代わりに[[左翼手]]として出場。初めてシーズンを通しての活躍を見せ、規定打席に到達し打率3割を達成するかと思われたが中盤以降急激に調子を落とし、新人の[[本多雄一]]らの活躍もあり終盤以降出場機会が減少し、結果的に規定打席にも30打席ほど到達せず、打率3割も逃した。
この年は1番ショート川崎、2番セカンド本多が定着し、サードを松田(221打席、打率.254)、本間(161打席、打率.224)、森本(114打席、打率.211)、江川(17打席)、吉本(8打席)が争ったがいずれも決め手に欠き、オフシーズンは外国人助っ人を構想することになった。
 
{{by|2008年}}は、松田がサードのポジションをつかみ、セカンド本多、ショート川崎が固定され、本間は便利屋として多く起用され、特に代打では3割の打率を記録した。この年限りで[[王貞治]]監督が退任したが、王がダイエー・ソフトバンクの監督を務めていた14年間を通してダイエー・ソフトバンクに在籍し続けた唯一の選手だった。
{{by|2007年}}は、代打で2試合連続本塁打など、代打での打率(32-11 .344)が高いことから代打での起用が多かった。代打起用38回はリーグ最多。7月13日に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を得たが行使しないと明言した。
本間はファースト小久保が故障した間だけファーストでのスタメンがあったものの103打席と過去7年間で最も少ない打席数に終わり、打率も.230と低迷した。
 
{{by|20082009年}}便利屋ソフトバンク在籍15シーズン目して多く起用され、特に代打では3割の打率を記録した。この年限で[[王貞治]]監督が退任したが王がダイエー・同年ソフトバンクの監督を務めに在籍していた14年間を通して選手の中で、最もダイエー・ソフトバンク在籍し続けた唯一の期間が長い選手であった(他チーム在籍も含めると巨人に移籍した[[大道典嘉]]の18シーズンが最長)
内野はファースト小久保、セカンド本多、サード松田、ショート川崎が固定され、マツダの故障後は森本がサードに起用された。
 
本間は秋山監督の構想から外れ1軍に呼ばれることなく途中1試合の出場にとどまり、シーズン1安打に終わった。
{{by|2009年}}、ソフトバンク在籍15シーズン目となり、同年ソフトバンクに在籍していた選手の中で、最もダイエー・ソフトバンクの在籍期間が長い選手であった(他チーム在籍も含めると巨人に移籍した[[大道典嘉]]の18シーズンが最長)。10月3日に[[戦力外通告]]を受けた。シーズン終了後、[[12球団合同トライアウト]]に参加したが獲得球団はなかった。
10月3日に[[戦力外通告]]を受けた。シーズン終了後、[[12球団合同トライアウト]]に参加したが獲得球団はなかった。
 
=== 石川時代 ===
{{by|2010年}}、一時は引退を示唆したが、[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|BCリーグ]]の[[石川ミリオンスターズ]]へ入団。打点王を獲得し、打率、本塁打は[[フランシスコ・カラバイヨ|カラバイヨ]]に次ぐリーグ2位と格の違い見せつけたが、同年11月5日に任意引退となり退団した。
 
毎年春季キャンプ中の紅白戦やシートバッティングで同じチーム内の投手から必ずヒットやホームランを打つため、投手陣からは「'''味方殺し'''」と呼ばれていた([http://wing.softbankhawks.co.jp/ex/camp/report/2009/02/0221-05.html キャンプレポート-宮崎春季キャンプ2009]福岡ソフトバンクホークス)。
 
=== 引退後 ===