「姚広孝」の版間の差分

m (Cite wikisourceテンプレート修正)
 
== 人物 ==
長州(現在の[[江蘇省][[蘇州市]]])出身。[[医者]]の家柄であったが、14歳で出家して道衍と称し、以後は[[仏法]]や[[陰陽術]]を学んだ。[[1385年]]、[[朱元璋|洪武帝]]の招聘を受けてその四男・燕王の朱棣(のちの[[永楽帝]])の軍師として仕えた。朱棣からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、建文帝が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また朱棣自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、朱棣を永楽帝として即位させた([[靖難の変]])。
 
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時代には「太祖実録」、「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。
338

回編集