「神保長誠」の版間の差分

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[[明応]]2年([[1493年]])に、[[細川政元]]などが[[足利義澄]]を擁立して10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義材]]を廃立して政長を自害させた[[明応の政変]]が起こった。長誠は[[中風]]を煩って越中に帰国中だったため難を免れたが、部下の越中衆の多くが[[河内国|河内]][[正覚寺]]での戦いで政長と共に殉じた。神保・椎名両氏など越中勢力は共に打撃を受けたが、長誠は越中をよくまとめている。将軍の座を廃された足利義材は、[[小豆島]]へ配流されることが決まり、京都の[[上原元秀]]の屋敷に幽閉されていたが、長誠の配下の手により京都を脱出。長誠は、越中国の放生津に足利義材を迎えて、正光寺を改装して将軍の御座所とした。このことにより足利義材は、[[越中公方]]と呼ばれるようになった<ref>{{Cite book |和書 |year=1984 |title= 富山県史 通史編Ⅱ|page=p449 |publisher= 富山県 }}</ref>。
 
長誠は細川政元派の[[畠山義豊|畠山基家]]軍の越中侵攻をたびたび撃退して軍事力を誇示する一方、被官鞍河兵庫助に数千貫の料足を持たせて京に送り、義材の将軍復帰工作に尽力するなど、和戦双方の手で義材の上洛を支援した。明応7年([[1498年]])9月に'''義尹'''と改名した義材は[[越前国]]の[[朝倉貞景 (9代当主)|朝倉貞景]]のもとへ移った。この行動をめぐっては、政元側との和睦を見込んだ上洛説、[[足利義澄]]追討のための西進説、長誠との不和に起因する越前没落説など、さまざまに取り沙汰されているものの、[[富山市郷土博物館]]の主任学芸員・[[萩原大輔]]は越前に赴いた際の御供がわずか13人だったことなどを元に「義尹の越前動座は(略)神保長誠らとの対立による越中退去、越前への没落と解釈すべき」としている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 萩原大輔 |date = 2011-12 |title = 中世・部会報告 足利義尹政権考 |journal = ヒストリア |issue = 229 |pages = 86-87 |publisher = 大阪歴史学会 |naid = 40019141766 }}</ref>。翌年、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、[[周防国|周防]]の[[大内義興]]を頼った。この時息子の慶宗が随行したとの説もある<ref>{{Cite book |和書 |year=1984 |title= 富山県史 通史編Ⅱ|page=p462 |publisher= 富山県 }}</ref>。
 
{{要出典|[[文亀]]元年(1501年)に病没。長誠像と伝わる肖像が[[富山市]]富崎の[[本覚寺 (富山市)|本覚寺]]に残されているが、制作年代は江戸時代後期を下ると思われる。|date=2020年4月}}