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[[馬寮|右馬允]]・[[渡辺昇 (平安時代)|渡辺昇]]あるいは[[渡辺省|渡辺播磨次郎省]]の子と伝わる。
 
父祖以来[[摂津源氏]]の郎党である渡辺党の一員として、[[源頼政]]の忠実な配下として行動し、[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]などにおいて頼政に従い出陣したことが見える。[[治承]]4年(1180年)の[[以仁王の挙兵]]にあたっては、当初偽って敵方の[[平宗盛]]に投降し、その愛馬『何両南鐐』を奪って頼政の元に参陣。その際、先立って頼政の嫡男・[[源仲綱|仲綱]]が愛馬のことで宗盛に辱めを受けていたことの報復として、馬のたてがみと尾の毛をそり、尻に「昔は何両、今は平宗盛入道」の焼印をして突き返し、宗盛を激怒せしめたという逸話が知られる(『[[平家物語]]』四・競)。必ず競を生け捕りにせよとの宗盛の指令にも関わらず、[[宇治平等院]]において奮戦の末に自害。または、[[島ヶ原]]に逃れ、その一族が『島ヶ原党』を名乗ったとされる。家紋は三星下一文字を同じくした。また、子・[[鶴田馴|馴]](なつく)の後裔も奥州相馬氏の家臣となった渡辺氏を初めとして、子孫を後世に伝えた。
 
その人物像については、『[[源平盛衰記]]』14・「三位入道入寺事」に、「弓矢取りては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男なり」と描写されている。