「山名誠通」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
11行目:
== 山名誠通に関する異説 ==
*通説によると、鳥取城は1545年に山名誠通の命を受けた[[武田国信#武田国信(戦国時代)|武田国信]]の家臣・田原某により築城されたことになっている。しかし、1544年に尼子晴久が鳥取山下(鳥取城)を攻めた記録があるので、鳥取城は山名誠通に対する但馬山名氏の抑えとして築かれたとする説が有力になっている。
*前記『申の歳崩れ』に相当する合戦については、当時の古文書には記録されていない。また山名誠通は確実な文書には1546年を最後に登場しない。加えて、誠通の家臣とされた武田山城守も但馬山名氏に通じていたことを裏付ける文書も発見されている。したがって、山名誠通は1546年頃に但馬の山名祐豊と鳥取城の武田山城守の攻撃によって、立見峠で討たれたとする説もある。現在も立見峠周辺に残る[[立見峠のおとんじょろう#備考|山名弥次郎の怨霊伝説]]は、誠通討ち死にの史実が姿を変えて伝えられたものと考えることもできる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』より)。