「ピエール・ビエトリー」の版間の差分

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1898年から1901年の間、ビエトリーは一連の[[ストライキ]]で活動し、1899年には[[パリ]]の労働者の行進を指導した<ref name="Mosse1">[[:en:George Mosse]], ''Masses and man'', 1987, p. 127</ref>。これらの活動の失敗への失望から、従来の社会主義から立場を移し主に[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]に対し反対の立場をとる様になる<ref name="Mosse1"/>。その代案として[[労働者階級]]の苦しみを軽減するための[[階級協調|階級協業]]を提唱し、1900年に POF を離党<ref name="Gordon"/>。それ以降は、非政治的な[[労働組合]]活動と労使間における[[コーポラティズム|協調主義]]的関係を主張し<ref name="Mosse1"/>、1902年には労働組織として「フランス黄色国家連合」([[:fr:Fédération nationale des Jaunes de France]])を結成<ref name="Gordon"/>、翌1903年には政党として[[国家社会主義党 (フランス)|国家社会主義党]](National Socialist Party)を結成した<ref>W. Laqueur, ''Fascism - A Readers Guide'', Penguin, 1979, p. 340</ref>。当初でこそ低調だったものの、[[ナショナルセンター (労働組合)|ナショナルセンター]]による強硬路線が概ね頓挫した後の1910年~1911年にかけて、多くの穏健な労働者がビエトリー派支持に替わっていった<ref>David M. Gordon, ''Liberalism and social reform'', p. 114</ref>。
 
マルクス主義の「赤色」と対比させたビエトリーの「黄色」運動は、協調主義的ながらも[[反資本主義]]・[[愛国主義]]的な側面、更には[[反ユダヤ]]主義的な傾向を有していた。そのため、ビクトル・アンリ·ロシュフォール([[:en:Victor Henri Rochefort, Marquis de Rochefort-Luçay|en]])や、[[ポール・デルレード]]、[[エドゥアール・ドリュモン]]([[:en:Edouard Drumont|en]])を始めとした伝統的な[[保守主義]]者からも支持を獲得した<ref name="Mosse2">[[:en:George Mosse]], ''Masses and man'', 1987, p. 128</ref>。「[[アクション・フランセーズ]]」に対しても一時期共闘の姿勢を見せていたものの、ビエトリーの頑固な個性と運動の主導権を握りたいフランセーズ側で折り合いがつかず結局喧嘩別れに終わった<ref>[[:en:George Mosse]], ''Masses and man'', 1987, p.129</ref>。1906年の議会選挙([[:en:French legislative election, 1906]])で当選した<ref>P. Davies & D. Lynch, ''Routledge Companion to Fascism and the Far Right'', 2002, p. 198</ref>。
 
== 晩年 ==