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'''ザビーナ・シュピールライン'''('''Sabina Spielrein''' [[1885年]] - [[1942年]])は[[ロシア]]出身の[[精神分析学者]]。
 
== 概要 ==
[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]の裕福な[[ユダヤ人]]の家庭に生まれ育つ。父ニコライは[[商人]]、母エヴァは[[歯学部]]の出身者だった。
 
[[ロストフ]]の女子[[ギムナジウム]]を経て、[[1904年]][[8月17日]]、[[統合失調症]]患者として[[チューリヒ]]近郊のブルクヘルツリ精神病院に入院し、ここで医師として働いていた[[ユング]]と知り合い、恋に落ちる。[[1905年]][[6月1日]]に退院した後、[[チューリヒ大学]][[医学部]]に入学し、[[1911年]]、[[統合失調症]]に関する論文を提出して医学部を卒業するまでユングとの関係は続いた。ユングは彼女が学位論文を書くにあたっての助言者だったが、同時に彼自身もザビーナから学問的に多大な影響を受けた。しかし既婚者のユングが、彼の子を産みたいというザビーナの希望を撥ねつけたため、二人の愛は破局を迎えた。同じ[[1911年]]、[[ウィーン]]で[[フロイト]]と会い、[[ウィーン精神分析学協会]]に参加。ユングとの恋愛体験に基づく論文『生成の原因としての破壊』は、フロイトの[[タナトス]]概念に影響を与えた。
 
[[1912年]]、ロシア系ユダヤ人医師パヴェル・ナウモーヴィチ・シェフテルと結婚し、[[ベルリン]]で暮らした。[[第一次大戦]]中は[[スイス]]で暮らしたが、[[1923年]]、[[ソビエト|ソヴィエト]]政権下の[[ロシア]]に帰国し、ロシア精神分析学協会に参加すると共に、[[モスクワ]]にて[[幼稚園]]を設立。なるべく早い時期から子供たちを自由人として育てることを旨とした幼稚園であり、[[スターリン]]が息子ヴァシリーを偽名で入園させたこともあったが、3年後、幼児たちへの性的虐待という冤罪をかけられたため、閉鎖を余儀なくされた。背後には、[[精神分析学]]に対するスターリン政権からの弾圧があった。
 
[[1936年]]、[[大粛清]]で夫を殺された上、[[1942年]]には故郷ロストフにて、ザビーナ自身も娘たちと共に[[ナチ]]の手で殺害された。