「亀姫 (徳川家康長女)」の版間の差分

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'''亀姫'''('''かめひめ'''、[[永禄]]3年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[1560年]][[6月27日]]) - [[寛永]]2年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]([[1625年]][[7月1日]]))は、[[徳川家康]]の長女で、[[奥平信昌]]の正室。母は、[[築山殿|築山御前]](瀬名姫)。
 
政略結婚により[[1576年長篠の戦い]]の翌年[[天正]]4年([[1576年]]、戦勝にともなう政略結婚により[[三河国|三河]]の[[新城]]城主・[[奥平信昌]]の妻となると、4人の男子([[奥平家昌|家昌]]・[[松平家治|家治]]・[[奥平忠政|忠政]]・[[松平忠明|忠明]])と1女をもうけた。[[1600年慶長]]5年([[慶長1600年]]5年)の[[関が原の合戦]]の戦勝により、[[1601年]](慶長]]6年([[1601年]])夫・信昌が[[美濃国|美濃]][[加納藩]]10万石の藩主となりに任じられて3男・[[奥平忠政|忠政]]共々に封地に移ったことから、'''加納御前・加納の方'''と呼ばれるようになった。やがて[[奥平忠政|忠政]]、遠地[[宇都宮藩]]の嫡男[[奥平家昌|家昌]]ばかりか、[[奥平信昌|信昌]]と夫子ら没後は相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。
 
ところで、亀姫は「[[宇都宮城釣天井事件]]」の黒幕と見られている。
嫡男・[[奥平家昌|家昌]]の忘れ形見で、わずか7歳で[[宇都宮藩]]主となった孫の[[奥平忠昌]]は、12歳の時に[[下総国|下総]][[古河藩]]に転封となった。ところが、[[奥平忠昌|忠昌]]の替わりに[[宇都宮藩]]へ入封したのは[[本多正純]]である。[[本多正純|正純]]を快く思っていなかった亀姫。理由は、[[大久保忠隣]]失脚事件である。
 
[[奥平信昌|信昌]]・亀姫夫妻の1人娘が、[[大久保忠隣]]の嫡子・[[大久保忠常]]に嫁していた為、[[大久保氏]]と[[奥平氏]]の関係は緊密であった。だが、娘婿・[[大久保忠常|忠常]]が早世し、頼みとする[[大久保忠隣|忠隣]]は不可解な改易と、心を痛めていた亀姫は、[[本多正純|正純]]の父・[[本多正信]]が奸計で[[大久保忠隣|忠隣]]を陥れた、と見なした。
そこで済めば、それまでの話だったところ、[[奥平氏]]にまで牙を剥いてくる[[本多正純|正純]]には、我慢がならなかった。移封であれば[[奥平忠昌|忠昌]]相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。しかも、それまでの[[奥平氏]]が10万石でありながら、[[本多正純|正純]]になった途端15万石というのも承服しかねた。
 
そこで、弟の2代将軍・[[徳川秀忠]]に、[[日光]]へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純は湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画があることを秀忠へ洩らしたされる。釣天井自体は事実無根であったが、[[本多正純|正純]]は配流されることとなった。[[奥平忠昌|忠昌]]が再び[[宇都宮藩]]へ復帰することができたというものである。
 
一説に寄れば、[[下総国|下総]][[古河藩]]への国替えの引越しに纏わる、こんな逸話がある。本来、私物以外はそのまま新入封の藩のために残して立ち去る所を、[[奥平氏]]では障子、襖どころか、畳までも撤去。それだけでは空き足らず邸内の竹木まで掘り起こし、一切合切を持ち去ってしまった、というもの。聞きつけた[[本多正純|正純]]の家臣が慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めるものだから渋々返してやった、というものだが、定かではない。
1625年、加納において66歳で死去。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は盛徳寺。
 
 
そこで、弟の2代将軍・[[徳川秀忠]]に、[[日光]]へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、[[本多正純|正純]]には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画があるを秀忠へ洩らしたされる。釣天井自体は事実無根であったが、[[本多正純|正純]]は配流されることとなった。その後は、[[奥平忠昌|忠昌]]が再び[[宇都宮藩]]へ復帰することができたというものである。
 
 
[[寛永]]2年([[1625年]])[[加納藩|加納]]において66歳で死去。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は盛徳寺。
 
== 関連項目 ==
*[[宇都宮城釣天井事件]]
*[[長篠の戦い]]
 
[[Category:徳川氏|かめひめ]]