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[[明治維新]]後、新政府は[[1868年]]に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金として造酒100石ごとに金20両を課し、翌年には鑑札冥加として造酒100石ごとに金10両、毎年の冥加として同額(ただし濁酒は毎年7両に減額)を課した。
 
[[1871年]]酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料(清酒10両・[[濁酒]]5両)、免許税(稼人1人あたり清酒5両・濁酒1両2分)、醸造税(製酒代金に対して清酒5分・濁酒3分)を徴収した。[[1875年]]には'''酒類税則'''を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。[[1878年]]には再び醸造税を造石高1石に対して清酒1円・濁酒30銭・白酒及び味醂2円・焼酎1円50銭・銘酒3円と改めた。
 
[[1880年]]に新たに'''酒造税制'''を制定し、初めて「'''酒造税'''(しゅぞうぜい)」という呼称を用いた。従来の税制を酒造免許税と酒造造石税(造石高1石に対して醸造酒2円・蒸留酒3円・再製酒4円)の2本立てとした。[[1896年]]には'''酒造税法'''が成立し、旧来の酒税免許税を新税である[[営業税]]に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)7円、第2種(濁酒)6円、第3種(焼酎・酒精)8円と定めて長く基本原則とした。
 
こうした度重なる制度改正と増税の背景には、酒が多くの人にとって必需品である事、生産量が極めて多く明治初期の統計では日本で一番生産量の多い商工業製品であった事、当時日本製の酒が海外で飲まれることは皆無で貿易摩擦の心配がなかった事などがあげられる。また、当時[[地主]]層出身議員が多かった[[帝国議会]]が自己の税負担に関わる[[地租]]の増徴には反対であったが、利害関係の乏しい酒造税の増徴には反対に回らなかった事も理由としてあげられる。
 
こうした事態に酒の醸造業者は強く反発したが、政府は濁酒を含む全ての自家用酒造を禁止([[どぶろく]]を参照のこと)して醸造業者の保護を約束する事で増税を受け入れさせた。事実、[[日露戦争]]が始まった[[1904年]]を皮切りに[[1905年]]、[[1908年]]、[[1918年]]、[[1920年]]、[[1925年]]と増税が続き、[[日中戦争]]が始まった[[1937年]]以後は毎年増税される事となった。また、[[1899年]]に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、[[第1次世界大戦]]下の[[大戦景気]]の数年間を例外として[[1935年]]に[[所得税]]に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのである。なお、[[1902年]]には酒税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあった。
 
[[1940年]]、これまで酒造税法の枠外に置かれて独自の課税体系に属していた[[ビール]]や[[工業用アルコール]]などを全ての酒類を統括した「'''酒税法'''」が施行される。[[1944年]]には課税基準が造石高から庫出高に変更された。戦後は[[1950年]]に国税収入の18.5%を占めたのをピークに増税傾向の継続にも関わらず他産業の復興もあってその占める地位は低下しつつある。そんな状況下の[[1950年]]に'''[[酒税法|現行の酒税法]]'''が施行されている。
 
==関連項目==