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'''下間 頼龍'''(しもつま らいりゅう、[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]])- [[慶長]]14年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]([[1609年]][[7月16日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[浄土真宗|本願寺]]の僧侶。父は[[下間真頼]]、妻は[[池田恒興]]の養女で[[織田信時]]の娘(七条)。子に頼広(後の[[播磨国|播磨]][[播磨新宮藩 (播磨国)|播磨新宮藩]]主・[[池田重利]])、[[宮城政次]]、日置忠俊(池田家臣)室、[[建部光重]]室、[[徳永昌重]]室、大久保外記([[大久保長安]]の次男)室、丹羽幸元(池田家臣)室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。
 
[[本願寺]]の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。[[石山合戦]]においては[[元亀]]3年([[1572年]])に同族の[[下間頼資]]・[[下間頼純|頼純]]父子と共に[[織田信長]]側の[[細川昭元]]を攻めて戦功をあげている。