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'''坂井 義則'''(さかい よしのり、[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]] - [[2014年]](平成26年)[[9月10日]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/sports/news/140910/spo1409100017-n1.html|title=
東京五輪最終聖火ランナーの坂井義則氏が死去 69歳 「原爆の子」平和の象徴として大役担う|publisher=産経ニュース|date=2014-09-10|accessdate=2020-02-28}}</ref>)は、[[日本]]の元[[陸上競技選手]]。元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社員。[[1964年東京オリンピックの開会式]]で[[聖火リレー]]の最終ランナーを務めた。
 
==プロフィール==
坂井は[[広島市]]に[[原子爆弾]]が投下された1時間半後に、現在の[[広島県]][[三次市]](当時は[[双三郡]]三次町)にて出生した。坂井自身は被爆者ではないが、電力会社に勤務していた父は[[被爆者健康手帳]]の保有者である<ref name="seichi">小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日20頁。</ref>。
 
[[広島県立三次高等学校]]在学中の[[1963年]](昭和38年)、[[第19回[[国民体育大会]][[400メートル競走|400m]]で優勝、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]への出場を目指し、[[1964年]](昭和39年)[[早稲田大学]]に入学した。当初、[[関西学院大学]]を目指していたが、同じ広島県出身で早稲田OBの[[小掛照二]]の勧誘により、進路を変更したという<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/other/389405/ 【甘口辛口】5月11日]サンケイスポーツ2010年5月11日。</ref>。大学では[[早稲田大学競走部|競走部]]に所属、監督の[[中村清]]の指導を受ける。
 
東京オリンピックの400mと[[1600メートルリレー走|1600mリレー]]で強化選手に指名されたが代表選考会で敗退、失意の底にあった。その矢先、組織委員会は{{要出典範囲|他の選手に決まっていた|date=2016年3月}}聖火最終ランナーの地位を「[[広島市への原子爆弾投下|広島への原爆投下の日]]」という象徴的な日に生まれた坂井に託した{{Refnest|候補10人(男子8・女子)の中から選ばれた<ref>[http://www.sankei.com/column/print/141010/clm1410100009-c.html 【甘口辛口】「幻の聖火ランナー」落合さん、補欠から正走者への夢はかなうか] - 産経ニュース、2014年10月10日</ref>。}}{{Refnest|group="注"|[[河野一郎]]オリンピック担当国務大臣(早大競走部OB)の意向もあったといわれる<ref>[http://zenkyoji.at.webry.info/201409/article_12.html 聖火ランナー坂井義則、力尽きる] - 思聞のひとりごと([[松倉悦郎]])2014年9月10日</ref>。}}。開会式当日、[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立霞ヶ丘競技場]]の千駄ヶ谷門で前の区間を走った[[鈴木久美江]](当時中学3年生)から[[オリンピック聖火|聖火]]を受け取り<ref group="注">鈴木によると、坂井の顔色が青かったため「緊張していないですか」と聞いたところ「階段を踏み外さないように頑張るよ」と表情をゆるめて答えたという。 (毎日新聞2015年3月19日23頁)</ref>、トラックを半周したあと聖火台までの階段を昇った<ref group="注">段数については文献により163段、182段など諸説ある。坂井自身は167段と聞かされていた(上記四国新聞記事)。</ref>。10万713人目<ref>『第18回オリンピック競技大会公式報告書(上)』</ref>のランナーであった。