「ニキタ・マガロフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
30行目:
 
== 経歴 ==
[[サンクトペテルブルク]]でグルジア-ロシア系貴族の家に生まれる。1918年に家族とロシアを離れ、最初に[[フィンランド]]に移民し、後に[[パリ]]へ移った。その[[パリ]]で[[イシドール・フィリップ]]について学ぶ。高名な[[ヴァイオリニスト]]の[[ヨーゼフ・シゲティ]]の伴奏者を務めたことが縁でその娘婿となり、[[レマン湖|ジュネーヴ湖]]畔に住まいを構えた。[[1949年]]に畏友[[ディヌ・リパッティ]]が病に倒れると、その後任教授として[[1960年]]まで[[ジュネーヴ音楽院]]に勤め、[[マリア・ティーポ]]や[[ライオネル・ログ]]らを育成した。また、彼の友人には[[モーリス・ラヴェル]]や[[セルゲイ・プロコフィエフ]]がいる。
 
ソリストとしては戦後になって有名になった大器晩成型の演奏家であり、とりわけショパンの[[ピアノ曲]]全集の録音(1974-78、Philips)で名高い。これは優秀な[[ステレオ録音]]の効果も相俟って、美音と優雅さをたたえたマガロフの抒情的な演奏様式を何よりも実証するものとなっている。またこの企画は、最初のショパンの全曲録音の試みとしても歴史的意義をもつものであった。ショパン作品のもつ情感の深さを掬い取っていないという批判も出されたものの、感傷性や過剰な演出を排した端正な表現や、作品の[[テクスチュア]]を明晰に炙り出した点にマガロフの個性や、義父シゲティからの影響力が認められる。またショパン弾きとしてのマガロフは、「[[ユリアン・フォンタナ|フォンタナ版]]」より自筆稿に従って演奏することを好んでいた。このような演奏様式のため、ショパンのほかに[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、ラヴェル、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]と相性がよく、なかでもストラヴィンスキーの[[管楽器]]と[[ピアノ]]のための《[[カプリッチョ (ストラヴィンスキー)|カプリッチョ]]》を[[エルネスト・アンセルメ]]指揮[[スイス・ロマンド管弦楽団]]を世界で初めて録音した。