「文禄・慶長の役」の版間の差分

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}}</ref>が、立花勢では約5割で、五島勢では約7割にも及んだ<ref>{{Harvnb|参謀本部|1924|loc=附表第一、第二|ref=staff2}}</ref>。なお、非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。
 
当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった<ref>『旧参謀本部 「日本の戦史 朝鮮の役」〈徳間文庫〉 徳間書店 1995年』の67頁では1592年の総石高を2253万石、総兵数を56万3千人としている。『学研 歴史群像シリーズ 「戦国合戦地図集」』の16頁では、1598年の太閤検地(1850万石)を元に、日本の総兵数を約46万としている。2つの出典の間をとって、総石高を約2000万石、総兵力を約50万人とする</ref>。文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の[[四国攻め|四国征伐]]時の豊臣軍の兵力は約10万、[[九州平定|九州征伐]]時は約20万、[[小田原征伐]]時は約20万であった。
 
軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書<ref>{{Harvnb|北島|1995|loc=pp.35-36}}</ref><ref>{{Harvnb|中村|1935|loc=pp.19-20}}</ref><ref>{{Harvnb|朝鮮史編修会|1937|ref=ch1|loc=pp.431-432}}</ref>と松浦古事記<ref>{{Harvnb|吉村|1934|loc=pp.126-131}}</ref>による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、7番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。先駆衆の毛利輝元<ref name="teru" group="注" />までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した8番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。