「大学別曹」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 括弧付き記事へのリンク
7行目:
大学別曹はあくまで寄宿舎であり、自習場所や書庫などが設置されていたものの、大学寮の学生であること(あるいはその入学準備者)が寄宿の要件であり、試験や講義は全て大学に通って受けることとなっていた。後世、大学別曹を「私立学校」とする見解([[重野安繹]]「本邦古来教育ノ大概」など)が出されたが、大学別曹に専門の教員が置かれて講義がなされたという記録はなく<ref>大学別曹内において、[[得業生]]などの年長者が年下の寄宿者の勉学をみるといったことは想定しうるが、現代の学校における学生寮でも同様のことが行われることは想定可能であり、これをもって私立学校と呼ぶことは無理がある。</ref>、また当時において私立学校に相当するものは、菅原氏の[[菅家廊下]]など、大学寮の教員や著名な学者がその私邸で講義を行った一種の「私塾」であったと想定できるために、この見解は成り立たない。
 
大学別曹は公的な寄宿舎ではないため大学寮の支配が及ばず、各氏の[[氏長者]]の下で管理された。のちには大学寮の任官試験を経ずに官職に就く特権(年挙)が与えられた。また運営の財源として独自に[[荘園 (日本)|荘園]]を領有したケースもある。その後、大学寮自体の停廃、氏という枠組み自体の解体とともに別曹も荒廃して実態を失い、いずれも形式上存在するのみとなった。ただし、形式のみといっても[[王氏]](源氏など[[皇親]]への[[賜姓]]によって成立した諸氏)の別曹である[[奨学院]]については、院政期から、その[[別当]]を代々の[[源氏長者]]が務める例となり、同様に源氏長者の兼帯となった[[後院]][[淳和院]]の別当とともに、源氏長者たることを象徴する称号となった。やがて「[[淳和奨学両院別当]]」という称号も作られ、武家である[[徳川将軍]]の称号のひとつとなる。また、[[摂関]]が[[興福寺]]や[[春日社]]などに氏長者としての立場から命令を下す際には、勧学院の別当を通じて文書(藤氏長者宣)を発給する慣例であった。
 
== 大学別曹の一覧 ==