「供御人」の版間の差分

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古代においては、天皇・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を[[贄]](にえ)として貢ぐ慣習があり、[[律令制]]のもとにおいても[[租庸調]]などの税とは別に、贄の納付が定められていたと考えられている。
 
これらを貢納する[[贄人]]を初めとする非農業民は、従来「無主」にして「公私共利」の地とされた'''山野河海'''の利用により生業をたてていたが、[[8世紀]]以降の律令制の解体、[[荘園公領制]]の成立とともに、[[荘園 (日本)|荘園]]領主による制約を受けるようになってきた。[[11世紀]]以降、非農業民は有力寺社などに生産物を貢納することを理由に、これらに隷属する[[神人]]となっていたが、[[後三条天皇]]親政下において、内廷経済を充実させるべく山野河海に設定されていた[[御厨]]を直轄化するという政策がとられると、[[蔵人所]]とその下部組織である[[御厨所]]の所管となった御厨の住民が供御人と呼ばれるようになった。更に、[[保元]]元年([[1156年]])の「[[保元新制]]」において[[神人・供御人制]]が確立したと見られている。
 
== 特徴 ==