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== 生涯 ==
[[永興 (明元帝)|永興]]2年([[410年]])、社崙が死去すると、その子の度抜はまだ幼かったので、部衆は社崙の弟の斛律を立てて藹苦蓋可汗とした。斛律は北の賀
永興3年([[411年]])、斛律は[[北燕]]の[[馮跋]]に馬三千匹を献じ、馮跋の娘の[[楽浪公主 (北燕)|楽浪公主]]を娶る。12月、斛律の宗族の悦侯・咄触干ら百数十人が[[北魏]]に投降した。斛律は北魏の威を畏れて防備を固め、南に侵攻しようとはしなかった。このため北魏の北辺は安静となった。
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