「権門体制」の版間の差分

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それに対し黒田は、文献に現れる[[権門勢家]]という言葉を用語化して権門体制論という学説を提唱した。
 
権門勢家とは簡単に言い表すと権威があり、勢威もある政治的、経済的に有力な勢力というところだろう。これら公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ[[荘園 (日本)|荘園]]を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家であるというのが権門体制論である。国家の様々な機能は各権門の家産制的支配体系に委ねられ、これら三者を統合する形式として、官位など公的な地位を天皇が付与し、三者の調整役ともなる。この意味で天皇は権門の知行体系の頂点に位する封建国家の国王なのだとする。荘園制が事実上崩壊した[[応仁の乱]]を契機に権門体制は崩壊し、[[織豊政権]]による[[天下統一]]までいわゆる[[国家]]権力は消滅したというのが黒田の主張である。
 
=== 歴史用語としての「王家」 ===