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'''李元昊'''(りげんこう、[[1003年]] - [[1048年]])は、[[中国]]の[[西夏]]王朝の初代[[皇帝]]。即位後の名は'''景宗'''(けいそう、在位[[1038年]] - 1048年)。
 
[[タングート]]の族長の[[家系]]の出身。父は西平王の地位にあった人物である。李元昊は若い頃から智勇に優れ、教養も豊かな人物であった。[[1032年]]、父の死により西平王の地位を継ぎ、1038年までにタングートの諸部族を武力によって併合したことを背景にして国号を大夏と号し、皇帝として即位したのである。しかし[[北宋]]では[[西夏]]と呼んだと言われている。
 
李元昊は現在の[[寧夏回族自治区]][[銀川]]の興慶府を首都と定め、宋に倣った官位制度の整備・学校の創設による教育の普及・軍備増強など、国家の基盤固めに尽力した。そして宋と貿易の利権などをめぐって争い、苦戦しながらもこれに勝利し、宋に名目上は臣従するという形をとりながら、宋が西夏に対して絹や茶などの貢物を連年納めさせるという条約を結ぶことに成功した。また、[[遼]]に対抗するため、[[オルドス地方]]や[[ゴビ砂漠]]などに対して勢力を拡大した。晩年には[[西夏文字]]の形成にも尽力し、西夏の文化向上に努めた。