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== 歴史 ==
建国者の[[劉隠]]の祖先は[[漢]]王室の[[宗族|支族]]である{{仮リンク|彭城劉氏|zh|彭城劉氏}}の子孫と自称した。劉隠は[[河南郡|河南]][[上蔡県|上蔡]]の人であったが、祖父の代に[[福建省|福建]]に移り住んで、[[南海郡 (中国)|南海]]交易で利益を上げて、当地の有力者となった。父の[[劉知謙]]の時に[[広州 (広東省)|広州]]に移って、[[黄巣]]の乱に際して功績を挙げて、[[封州 (広東省)|封州]][[刺史]]となった。なお、劉隠の遠祖は[[アラブ人|アラブ系]]だという説がある<ref>[[{{Cite journal|和書|author=藤田豊八]]「|authorlink=藤田豊八|title=南漢劉氏の祖先について」『|journal=東洋学報|volume=6-|issue=2|year=1916年。}}</ref>。
 
劉隠は父の死後、その地位を受け継いで刺史と為り、静海軍[[節度使]](広東・広西)の反乱を鎮圧し、更にこれを乗っ取って[[904年]]に静海軍節度使となった。その後、広東全土と広西の一部を支配し、唐の滅亡とともに自立の姿勢を強める。さらに南海貿易での利益をもとに広東・広西に勢力を広げ、半独立勢力化した。これに対して当時の中原勢力である[[後梁]]は[[909年]]に彼を南平王に、[[911年]]に南海王に任じた。劉隠は南海王に任じられた後、ほどなくして死去した。
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南漢の政治は同時期に存在した他の五代十国政権と違い、軍人主導ではなく文官が優越しており、地方官には全て文官があてられていた。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として当時未開の地だったこの地方が選ばれており、左遷された後も住み着いた者が多く、そのような人々の子孫たちや戦乱の続いた[[中原]]から逃れてきた人士が南漢勢力に参加したからである。
 
しかし劉晟の代になると宦官が重用され、宦官の数も約7,000人<ref>人口約100万人の国家だったために、この時点でも人口比率から見ればかなりの数である</ref>から劉晟の在位末期には約2万人に増加し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という状況に陥る。後を継いだ劉{{lang|zh-tw|鋹}}は大勢の文官を粛清し、空いたポストに宦官を登用、登用したい人物がいた場合はわざわざ[[去勢]]してから登用したという。宋に併合された際には7,000人以上の宦官が宋軍に拘束された。
 
== 南漢の統治者 ==
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# 後主・[[劉チョウ|劉{{lang|zh-tw|鋹}}]](りゅう ちょう、もとの名は継興、943年 - [[980年]]、在位:958年 - [[971年]])
 
=== 系図 ===
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{{familytree|border=1 | | | | | A | | | | | | A=代祖[[劉知謙]](劉謙)}}
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== 参考・引用文献 ==
* [[1997年]] 『世界歴史大系 中国史 3』 五代〜元 ([[山川出版社]] ISBN 4634461706)
 
== 脚注 ==
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== 参考・引用文献 ==
* {{Citation|和書|editor1=梅原郁|editor2=斯波義信; 溝口雄三; 森田憲司; 愛宕元; 杉山正明|title=中国史 3 五代〜元|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|year=1997|isbn=4634461706}}
 
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[[Category:五代十国]]
[[Category:南漢|!]]