「おせんころがし殺人事件」の版間の差分

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終戦後は[[北海道]]の[[美唄炭鉱]]で炭鉱夫となって荒くれ男たちと過酷な肉体労働の日々を過ごし、それまでひ弱で内向的だった栗田は周囲の男たちと同様の粗暴な荒くれ男となっていた。
 
[[1948年]]、ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた栗田は、[[三角関係]]のもつれから[[静岡県]]において交際女性を殺害した(交際相手2名を殺害したと供述したが立件されたのは1名のみ)。さらに[[1951年]][[8月8日]]、[[栃木県]]で子供を寝かしつけようとしていた主婦を[[強姦]]しながら絞殺した揚句、[[屍姦]]した。[[10月10日]]には[[日本国有鉄道|国鉄]]([[東日本旅客鉄道|現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)]])上総興津駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名<ref>石井暉二「おせんころがし殺人事件」『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)</ref>を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。[[被害者]]達は崖の途中に止まっていたが、犯人の栗田はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びることができた。[[1952年]][[1月13日]]、千葉県[[千葉郡]][[検見川町]](現在の[[千葉市]][[花見川区]])で主婦と叔母が殺され、主婦は屍姦された。この際[[指紋]]が検出され、これにより栗田が割り出され栗田は[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された。
 
まず、1952年1月13日の事件で[[千葉地方裁判所|千葉地裁]]で[[1952年]][[8月13日]]、栗田に[[日本における死刑|死刑]]の[[判決 (日本法)|判決]]が下された。[[1953年]][[12月21日]]には[[宇都宮地方裁判所|宇都宮地裁]]で他の件に関して死刑の判決が下された。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に[[勝田清孝事件|警察庁広域重要指定事件113号]]が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった<ref>[[1965年]]3月には[[前橋地方裁判所|前橋地裁]]、[[1976年]]2月には[[松山地方裁判所|松山地裁]]で、一人の[[被告人]]に対し、二つの死刑判決が宣告された例があるが、控訴審で前者は[[無期懲役]]に、後者は一つの殺人について無期懲役に減刑されている。松山の例は残る一つの殺人については死刑が確定し、すでに執行されている。</ref>。その後、[[控訴]]は取り下げ、[[仙台拘置支所|宮城刑務所仙台拘置支所]]に押送された。判決後の栗田は衰弱がひどく、[[再審]]を繰り返した。