「栗田健男」の版間の差分

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栗田は、反転の決断について「その日に受けた攻撃状況や、われわれの対空砲火がその空中攻撃に対抗できないという結論から、もしこのままレイテ湾に突入しても、さらにひどい空中攻撃の餌食になって、損害だけが大きくなり、折角進入した甲斐がちっともないことを私に信じ込ませた。そんなことなら、むしろ、北上して米機動部隊に対して小沢部隊と協同作戦をやろうということに追いついてきた」と語っている<ref>『丸』昭和32年(1957年)11月特大号 P79[[潮書房]]</ref>。反転の動機は艦隊決戦思想から出たものかという質問に対して、「いや、輸送船も叩かねばならぬと思っていました」と答えている<ref name="ketsudan1971"/>。南西方面艦隊からの発信とされる北方機動部隊電報により反転したことについて「そのときの心境というものは、あとで考えてみても良くわからんものがある」「あの電報がなかったら、まっすぐレイテに行ったでしょうね。とにかく、ですよ。敵情はさっぱりわからん。それで、まだこっちにはこれだけ兵力が残っている。一方、レイテに行っても収穫は期待できない。そういうとき、敵がいるという電報がはいった。それじゃあ、ということになったわけですね」「あとから考えれば、ですがね。何だって見えもしないものを追って、……それも飛行機もないし、向こうもスピードを上げて逃げ回るのに……いってみれば、ハエタタキも持たずにハエを追うようなものじゃないか、といわれると、ちょっと困る」と語っている<ref name="kojima1967"/>。また、「あれは三川が打ったんだよ。三川の電報だったので、俺は北へ行ったんだよ」という{{refnest|佐藤和正『レイテ沖海戦』<ref group="注釈">大岡次郎への談話。</ref>}}。「あれは偽物だったという話もあるようですが」と質問すると、不機嫌そうに答え、30海里なら追尾が可能で、当時相対したばかりの南方の敵部隊は雑魚だと思っていた旨を述べている<ref name="layte1944">『レイテ沖海戦1944』</ref>。
 
9時11分追撃を中止しヤヒセ43に部隊集結を命じたことについて、GHQ[[参謀第2部]]歴史課陳述に栗田は「部隊に集合を命じたのは、レイテ湾突入の主目的達成を考えたからである。敵機動部隊は二時間以内に戦場に到着するという敵側情報も、当面の戦闘を早目に切り上げた理由の一つであった。当時、第一戦隊は敵魚雷回避のため針路北で航走したので、前方に進出していた軽快部隊と隔在し、かつ有効な敵の煙幕展張とあいまって敵情はほとんどわかっていなかった。したがって集合を発令しようとした直前のことであるが、第十戦隊から『我突撃に転ずる』むね電報があったので、その攻撃の終了の頃あいを見はからって、〇九一一集合を命じたのである」と答えている<ref name="GHQ-G2-1949">(二二四)「比島沖海戦に関する陳述書」GHQ参謀第2部歴史課 1949年12月20日</ref><ref name="sato-tensai">佐藤和正『レイテ沖海戦』</ref>。
 
1955年、元海軍記者・[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]の取材で、栗田は反転の動機について、「あの時は非常に疲れていた」と語っている<ref>伊藤正徳『連合艦隊の最後』『レイテ戦記』</ref>。パラワン水道にて最初の旗艦の愛宕が沈没した為、艦隊司令部要員は重油の漂う中を予備の旗艦に指定されていた大和に向けて移乗する事態に陥った。その後も戦闘が続き、サンベルナルジノ海峡を通過した際には夜戦を覚悟していた。そのためサマール島沖海戦後に反転を行った際、栗田をはじめ第一遊撃部隊司令部は連日休む暇も無かった<ref>伊藤正徳『連合艦隊の最後』、児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』P230</ref>。
 
この取材で栗田は「その判断も今から思えば健全でなかったと思う。その時はベストと信じたが、考えてみると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断だということになるだろう」と語り、伊藤に「そんなにつかれていたのか」と問われ、「その時は疲労は感じていなかった。しかし、三日三晩殆んど眠らないで神経を使った後だから、身体の方も頭脳の方も駄目になっていたのだろう」と答えた。「情報を手にして幕僚会議を開いて反転退却した真相は」と問われ、「その時は退却という考えはない。幕僚とは相談しなかった。自分一個の責任でやった。情報の正否を確かめる暇もなかったが、要するに敵の機動部隊が直ぐ近所にいると信じたのが間違いだった。(中略)いくら追っても捕まるわけはないのだが、それを捕捉して潰してやろうと考えたのが間違いだった。何しろ敵空母撃滅が先入観になっていたので、それに引摺られた」と答えている<ref>伊藤正徳『連合艦隊の最後』、[[大岡昇平]]『[[レイテ戦記]]』</ref>。(ただし、第二艦隊参謀長であった[[小柳冨次]]は、1945年10月24日、GHQでの陳述にて、栗田中将は幕僚会議で十分意見を述べさせたのか、それとも自分一人の所信で命令を下したのかをJames.A.Field予備少佐から質問された際、幕僚会議を開いて、決定は全員一致であった旨を回答している。)