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[[file:Molsheim - Siège corporation des boulangers -1.JPG|left|thumb|200px|かつてパン屋組合があった建物]]
[[file:Eglise des jésuites.jpg|left|thumb|200px|イエズス会教会]]
1935年にモルスアイム北部から、[[メロヴィング朝]]時代の墓が発掘された。Mollesheimの名が最古に記されたのは820年、ストラスブール司教アデロクへのワインの寄進証書においてである。
 
1219年、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が、コミューンに特権や課税特権を与えた。1263年には既にコミューンは周囲を城壁に囲まれていた。
 
モルスアイムはストラスブール司教の領地であったため、ドイツの皇帝たちと代々の司教たちとの間で領有が争われた。1573年には司教によって貨幣鋳造が行われた。
 
[[対抗改革]]の中心地であったモルスアイムには、1580年に[[イエズス会]]の神学校が建てられた。1618年、当時の司教[[レオポルト5世 (オーストリア大公)|レオポルト・フォン・エスターライヒ]]は、神学校をアカデミーとした。1701年、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]はアカデミーをストラスブールに移し、神学校のみ残した。
 
1592年、空席となったストラスブール司教の座をめぐり、モルスアイムのカトリック聖職者とストラスブールのプロテスタント聖職者の対立が起こった。[[ルーテル教会]]が推すヨハン・ゲオルク・フォン・ブランデンブルクと、カトリックが支持するロレーヌ枢機卿([[:fr:Charles de Lorraine (1567-1607)|fr]])が争い、司教戦争([[:fr:Guerre des évêques (Alsace)|fr]])と呼ばれる武力衝突に発展した。
 
1909年、[[イタリア]]出身の自動車技術者、[[エットーレ・ブガッティ]]が近郊のドリスハイム(Dorlisheim)(アルザスはこの当時[[ドイツ]]領)に自動車会社[[ブガッティ]]を設立し、1940年代初頭まで主に高性能スポーツカーや[[レースカー]]を製造していた。