「スタニスワフ・コストカ・ポトツキ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ルヴフ]]の代官でリトアニア砲兵隊長官だったエウスタヒ・ポトツキ伯爵([[フェリクス・カジミェシュ・ポトツキ]]の孫)の四男として生まれ、1776年6月2日に王冠領[[マルシャウェク|宮内長官]][[スタニスワフ・ルボミルスキ (1722-1782)|スタニスワフ・ルボミルスキ]]公の三女アレクサンドラ([[アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ]]公の姪)と結婚した。兄[[イグナツィ・ポトツキ|イグナツィ]]もアレクサンドラの長姉と結婚しており、この二重結婚はポトツキ家と[[チャルトリスキ家]]の指導する党派「[[ファミリア (党派)|ファミリア]]」との結びつきを築くものであった。
 
ポトツキは1780年に[[ローマ]]を訪れた際、画家[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]に肖像画を描かせた。彼は兄と同じく[[ワルシャワ]]の[[貴族学院]]を卒業し、後に[[ヴィラヌフ]]でポーランドの文学と芸術を学んだ。ポトツキは1781年から1784年まで王冠領[[ポトストリ|副大膳官]]を、1792年より王冠領陸軍中将を務め、また[[4年議会]]においても[[ルブリン]]選出代議員として出席し、「[[愛国派]]」の指導者の一人として活動した。中将として[[5月3日憲法]]を守る「護憲戦争」であった[[ロシア・ポーランド戦争 (1792年)|ロシア・ポーランド戦争]]にも参加したが、共和国側が敗れると国外に亡命し、1797年に帰国した。