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{{出典の明記|date=2016年4月}}
{{Otheruseslist|明治[[大日本帝国憲法]]下の[[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|25x20px]] '''[[日本]]'''の議会|[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|border|25x20px]] '''[[神聖ローマ帝国]]'''の領邦の代表者会議|帝国議会 (神聖ローマ帝国)|'''{{flag|ドイツ帝国}}'''の議会|帝国議会 (ドイツ帝国)}}
{{議会
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|成立年月日=[[1890年]][[明治]]23年)11)[[11月29日]]
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|所在地=[[国会議事堂#議事堂の一覧|国会議事堂]]参照
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{{読み仮名|'''帝国議会'''|ていこくぎかい}}は、[[1890年]]([[明治]]23年)の[[大日本帝国憲法|]](明治憲法]]の[[施行]]から[[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]の[[日本国憲法]]の施行まで設置されていた[[日本]]の[[議会]]である。

公選の[[衆議院]](下院)と非公選の[[貴族院 (日本)|貴族院]](上院)からされた。「議会」もしくは「国会」と略称された<ref name="shouwa">『事典 昭和戦前期の日本―制度と実態』(伊藤隆 監修、百瀬孝 著、吉川弘文館) 36、1990年)36頁。</ref>。

1890年(明治23年)11)[[11月29日]]開会の第1回議会から、[[1947年]](昭和22年)3)[[3月31日]]閉会の第92回議会まで行われた。同年[[5月3日]]の明治憲法の失効及び日本国憲法の施行により、下院である衆議院は維持、上院である貴族院は廃止され後継機関として[[参議院]]が設置され、今日の[[国会 (日本)|国会]]との連続性を持つ有する
 
== 沿革 ==
[[明治]]初期の[[自由民権運動]]、国会開設運動を経て、[[明治天皇]]による[[詔勅]]「[[国会開設の詔]]」が[[1881年]](明治14年)10)[[10月12日]]に表明された。その8年後、[[1889年]](明治22年)2)[[2月11日]]の[[大日本帝国憲法]]及び衆議院議員選挙法(明治22年2月11日法律3号)の[[公布]]を以て、翌年の1890年(明治23年)に上院である[[貴族院 (日本)|貴族院]]の互選・勅選と下院の代議士を公選する[[第1回衆議院議員総選挙]](同年7月)が実施され、同年11月に貴族院と[[衆議院]]による[[二院制]]の第1回帝国議会が成立し開会された。
 
初期議会においては政府の[[超然主義]]と衆議院が対立していたが、[[日清戦争]]後には政府(内閣:行政府)と両院(帝国議会:立法府)の提携が行われるようになり、った。[[大正]]期に入ると[[大正デモクラシー]]により、[[藩閥政治]]にとって代わって[[政党政治]]が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で[[議院内閣制]]は確立できず、1932年([[昭和]]7年)に起きた軍部のクーデター未遂である[[五・一五事件]]で地位が低下する。特に、1940年(昭和15年)に全政党が解散して[[政翼賛会]]が成立される、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの[[翼賛議会]]と化していった<ref group="注釈">もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮すなどの一定の譲歩がなされたために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。</ref>
 
やがて[[昭和]]期に入ると、軍部などの勢力の台頭で[[議院内閣制]]は確立できず、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[5月15日]]に起きた軍部のクーデター未遂である[[五・一五事件]]で地位が低下する。特に、[[1940年]](昭和15年)に全[[日本の政党|政党]]が解散して[[大政翼賛会]]が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの[[翼賛議会]]と化していった<ref group="注釈">もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせなければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮するなどの一定の譲歩がなされたために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。</ref>。
[[衆議院]]では成立当初から乱闘騒ぎがしばしば起きていたのに対し、貴族院ではほとんどなかったとされている。なお、[[日清戦争]]中の[[第7回帝国議会|第7議会]]は[[大本営]]のあった[[広島市]]で開催されている。
 
「(公選の)[[衆議院]]では成立当初から乱闘騒ぎがしばしば起きていたのに対し、「(非公選の)[[貴族院 (日本)|貴族院]]ではほとんどなかったとされている。なお、[[日清戦争]]中の[[第7回帝国議会|第7議会]]は[[大本営]]のあっが臨時に設置されてい[[広島県]][[広島市]]で開催されている。
1947年(昭和22年)3月31日の第92議会で衆議院は解散し、貴族院は停会された。そして、同年5月3日に[[日本国憲法]]が施行され、帝国議会は[[国会 (日本)|国会]]に移行した。
 
1947年(昭和22年)3月31日の第92議会で衆議院は帝国議会として最後の解散し、貴族院は停会された。そして、同年5月3日に大日本帝国憲法が失効し[[日本国憲法]]が施行され、下院である衆議院はそのまま維持されつつ、上院であった貴族院が廃止される代わりにその後継機関として[[参議院]]が新設され、両院制の帝国議会は[[国会 (日本)|国会]]に移行した。
 
== 構成・権限等 ==
[[衆議院]]と[[貴族院 (日本)|貴族院]]の[[二院制]]で、貴族院は[[皇族]]([[親王]]及び[[王 (皇族)|王]])、[[華族]]議員<ref group="注釈">ただし、[[伯爵]]以下の議員については7年に1度[[互選]]が行われて、その代表が議員となることになっていた。</ref>、勅選議員<ref>満30歳以上の男子で、貴族院令第1条で「国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者ヨリ特ニ勅任セラレタル者から定員は125以内で勅選された。終身議員。</ref>、多額納税<ref>満30歳以上の男子で直接国税納税額の多い者を任期は7年で互選。</ref>、帝国学士院選出議員<ref>貴族院令の第4次改正(第50回帝国議会)で設けられた帝国学士院の会員で満30歳以上の男子の中から4名を互選で選ぶ。出する。任期は7年である</ref>及び[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]及び[[日本統治時代の台湾|台湾]]在住者議員<ref>貴族院令の第5次改正(第86回帝国議会)で朝鮮及び台湾住民の政治的処遇を改善するため朝鮮及び台湾に在住する満30歳以上の男子で名望あるもの10人以内を勅選で任期は7年。[[日本の降伏|敗戦]]に伴い、第6次改正(第90回帝国議会) で廃止された</ref>で構成され、解散はなかった。ただし、'''皇族が議会に出席したことはなかった'''。議院相互の関係などは[[議院法]]によって規律された。両院は、衆議院の[[予算先議権]]を除き、対等の権限を有する<ref group="注釈">1891年(明治24)2月20日、天野若円(大成会)が提出した、衆議院が[[大日本帝国憲法第67条]]関連の予算削減を審議する際には事前に政府の了解を得るという決議が衆議院で可決され、政府もこれを了承した。これは一見帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにもみえるが、裏を返せば、予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院がさらに修正を加える余地を奪うもので、衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を議会慣習の形で事実上確立したものであった。</ref>。
貴族院と衆議院を併せて貴衆両院、貴衆二院と略称され、議会では[[国民]]から選出された議員を代議士、両院を以て議決することから帝国議会制度は代議制度とも称された。
 
貴族院と衆議院を併せて、「貴衆両院貴衆二院と略称され、議会では[[国民]]から選出された議員を代議士、両院を以て議決することから帝国議会制度は代議制度とも称された。
帝国議会の常会(通常会)は毎年12月に召集され、会期は3ヶ月であったが、勅命によって延長されることもあった。議会の召集・開会・閉会・[[停会]]・[[衆議院解散]]は[[天皇大権]]に属した。召集は各議員に対して一定の期日に特定の場所に集会を命じる行為であるが、勅命によってのみなされる。帝国議会はみずから集会する権、または召集を請求する権を有しない。帝国議会は毎年1回召集するのを常則とされ、これを通常会といい、毎年11月、または12月、東京に召集される。ほかに臨時議会が召集することがある(41条)。開会は、議会が召集され、議長、副議長および議員の部属が定り、両議院が成立したのち詔書で期日を定めてなされる。閉会は、会期が終了し、したがって議会の職務行為が終了したことを公に宣示する行為であり、閉会するという勅語が出され(詔書による公布はない)る。議会の開閉は、両院に対して同時に行なわれる。議会の停会は会期中、一時、議会の職務行動の停止を命じる行為で、15日以内、一定の期間を定め、詔書で命じる。衆議院が解散されると、貴族院も停会扱いとされ、解散から5ヶ月以内に[[衆議院選挙]]を行って新議会を召集しなければならないとされていた。議会の休会は各議院がその会議を休止することで、会期中、休会するのは各院の随意であった。
 
帝国議会の常会(通常会)は毎年12月に召集され、会期は3ヶ月であったが、勅命によって延長されることもあった。議会の召集開会閉会[[停会]][[衆議院解散]]は[[天皇大権]]に属した。召集は各議員に対して一定の期日に特定の場所に集会を命じる行為であるが、勅命によってのみなされる。帝国議会はみずから集会する権、または召集を請求する権を有しない。帝国議会は毎年1回召集するのを常則とされ、これを通常会といい、毎年11月、または12月、東京に召集される。ほか臨時議会が召集することがある(41条)。開会は、議会が召集され、議長、副議長および議員の部属が定り、両議院が成立したのち後に詔書で期日を定めてなされる。閉会は、会期が終了し、したがって議会の職務行為が終了したことを公に宣示する行為であり、閉会するという勅語が出され(る(詔書による公布はない)る。議会の開閉は、両院に対して同時に行われる。議会の停会は会期中、一時、議会の職務行動の停止を命じる行為で、15日以内、一定の期間を定め、詔書で命じる。衆議院が解散されると、貴族院も停会扱いとされ、解散から5ヶ月以内に[[衆議院選挙]]を行って新議会を召集しなければならないとされていた。議会の休会は各議院がその会議を休止することで、会期中、休会するのは各院の随意であった。
日本国憲法下の国会と比較すると、[[大日本帝国憲法]]は[[三権分立]]の形式を取りながら、[[立法|立法権]]は天皇の大権に属し、議会には、政府が提出する法律案に対する[[立法協賛権]](憲法5条、37条)及び予算案に対する予算協賛権([[大日本帝国憲法第64条|64条]])、政府に対する[[建議権]](40条)、天皇に対する[[上奏権]](49条)、議会に持ち込まれた[[請願]]を審議する権限(50条)が与えられていた。また、天皇による[[法律裁可権]]に基づく裁可を経るという条件付きながら[[法律提案権]](38条)も有していた<ref group="注釈">議会で成立した議員提案の法律案が天皇の裁可を得られずに成立しなかった例はない。</ref>。
 
日本国憲法下の国会と比較すると、[[大日本帝国憲法]]は[[三権分立]]の形式を取りながら、[[立法|立法権]]は天皇の大権に属し、議会には、政府が提出する法律案に対する[[立法協賛権]](明治憲法5条、37条)及び予算案に対する予算協賛権([[大日本帝国憲法第64条|64条]])、政府に対する[[建議権]](40条)、天皇に対する[[上奏権]](49条)、議会に持ち込まれた[[請願]]を審議する権限(50条)が与えられていた。また、天皇による[[法律裁可権]]に基づく裁可を経るという条件付きながら[[法律提案権]](38条)も有していた<ref group="注釈">議会で成立した議員提案の法律案が天皇の裁可を得られずに成立しなかった例はない。</ref>。
 
帝国議会の協賛権は、国家の行為についてその行為が行なわれる前にあらかじめ同意を与えてその行為を有効、または適法ならしめる権である。
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== 特徴 ==
予算案に関しては否決ができず、修正のみ可能であった。しかも予算の編成権は政府のみが有していており議会にはなかったため、修正も予算金額の削減だけのみであった。

ただし追加予算案は否決できた。緊急時には委員会の審議を省略し本会議にかけることが可能あったため、[[大日本帝国陸軍]]及び[[大日本帝国海軍]]への歳出である軍事費や[[皇室]]関係費などの追加予算のさいにはしばしば省略された<ref group="注釈">予算の審議は衆議院の先議(65条)であったが決算は政府から両院に提出され、各院は別々に決議し、決議したものは他の院に送付されない。よって両院の決議が異なることがあった。</ref><ref>「帝国議会の運営と会議録をめぐって」大山英久(国立国会図書館調査及び立法考査局調査企画課No.652(2005652)2005(平成17)5月))[http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200505_652/065202.pdf]PDF-P.9</ref>。
 
予算議定権は、憲法64条に規定された、帝国議会が政府提出の予算に協賛する権であるが、その範囲は、皇室経費(66条)、継続費(68条)、歳入予算などに関して制限があった。
 
1.歳出予算については、その原案に対して廃除削減を行ない得るのみであった。2.政府の原案については、a 憲法上の大権に基づく既定の歳出、b 法律の結果による歳出、c 法律上、政府の義務に属する歳出の修正には政府の同意を要する(67条)。
1.歳出予算については、その原案に対して廃除削減を行い得るのみであった。
予算の協賛権の効果はあらかじめ同意を与え、大臣の責任を解除する。
 
帝国議会が予算を議定せず、または予算が不成立のときは、政府は前年度の予算を施行する(71条)。
1.歳出予算については、その原案に対して廃除削減を行ない得るのみであった。2.政府の原案については、a 憲法上の大権に基づく既定の歳出、b 法律の結果による歳出、c 法律上、政府の義務に属する歳出の修正には政府の同意を要する(67条)。
 
予算の協賛権の効果はあらかじめ同意を与え、大臣の責任を解除する。帝国議会が予算を議定せず、または予算が不成立のときは、政府は前年度の予算を施行する(71条)
 
予算については衆議院が先議権を有する(65条)。
 
(議決を経なければ法律は成立しないものの)帝国議会は、'''天皇の立法権行使'''に対する'''協賛機関'''」という位置付けであった点に一番のがあり<ref group="注釈">5条により、「立法権は天皇にあり、帝国議会は協賛機関に過ぎない」とみるか、「帝国憲法37条により立法に協賛を要ス点に着目して実質的立法機関であった」るかで帝国議会への評価は異なる。前者は翼賛政治体制時に象徴的にみられ、後者は大正デモクラシー期に最も強く現れた。</ref>、「立法権は[[国王]]と議会が共に持ち行使する」という近現代の欧州[[立憲君主国]]における位置づけとはやや異なる。
 
しかし両者ともに、[[絶対王政]]下のような拒否権は有せず、天皇自ら法案を作成したわけでも、帝国議会の議決を裁可しなかったわけでもないのでかったため、事実上の近代的立憲君主国であったことは間違いがない断言できるとされる
 
また、大日本帝国憲法下では法律事項とされる事項であっても、法律に反しない限りは帝国議会の関与を要せず、勅令をもって[[独立命令]]を制定でき(「立法」の対象が狭く考えられていた<ref group="注釈">ただし、[[緊急勅令]]は議会の次の会期に承諾を得なければ将来に向かって効力を、[[非常大権]]は帝国憲法下では一度も発動されなかった。</ref>)、皇室経費は議会の協賛の対象外とされ(憲法66条)、その他天皇大権に関わる予算も政府が同意しない限りにおいては、削減・廃除ができないとされるなど、政治に関する他の多く大半の権限が議会の統制を受けず、議会の権限は弱小であった。したがって、帝国議会の議決は国家の最高意思ではなく、帝国議会の権限外にあった。
 
日本国憲法下の国会では委員会制が採られているが、帝国議会では[[読会制|三読会制]]が採られていて、本会議中心であった。委員会の種類としては、全院委員会、常任委員会及び特別委員会、そして、継続委員が置かれていた。全院委員はすべての議員が委員となり、実際上、本会議と異ならず、ただし、議長および議事規則は異なった。常任委員は、貴族院には、資格審査委員、予算委員、懲罰委員、請願委員および決算委員があった。衆議院には資格審査委員をのぞく4つがあった。特別委員はいち一件の事件が審査されるために特設され、継続委員は、議会の閉会中、議案の審査を継続するために設けら置された。
 
== 帝国議会の一覧 ==