「ジュール・ペロー」の版間の差分

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ペローは[[1835年]]に[[パリ・オペラ座バレエ|パリ・オペラ座]]を離れ、[[ロンドン]]、[[ミラノ]]、[[ウィーン]]などヨーロッパ諸都市を公演でまわった。[[ナポリ]]で、彼は才能溢れるダンサーだった[[カルロッタ・グリジ]]を見いだした。彼は彼女のバレエの師となり、恋人となり、[[1836年]]に自分のパートナーとしてグリジとロンドンで踊った。彼女が次世代のバレリーナとして頭角を現したのには、ペローの存在抜きには語れない。同じ年から、ペローは振付を始めた。
 
『[[ジゼル]]』の振付が成功すると、彼は『アルマ』や『妖精の名付け子』を[[ファニー・チェッリート]]のために振り付けた。次の6年間は、ロンドンの[[ハー・マジェスティーズ劇場]]のため定期的に振付をした。『[[ウンディーネ#バレエ|オンディーヌ]]』(1843年)、『[[ノートルダム・ド・パリ#バレエ|エスメラルダ]]』(1844年)、『[[パリスの審判]]』(1846年)と有名な『[[パ・ド・カトル]]』(1845年)である。『パ・ド・カトル』では主役級の4人のバレリーナが同時に舞台に立つという難しい設定だったが、振付の傑作となった<ref>現在上演されているのは、[[1941年]]にイギリスの振付家、[[アントン・ドーリン]]が再振付したものである。</ref>。ほとんどの作品で作曲を担当したのは、[[チェーザレ・プーニ]]である。
 
1850年代に入ると、彼はダンサーとして[[サンクトペテルブルク]]の帝立バレエと契約し、のちにはバレエ監督となった。ロシア滞在の最中に内妻カルロッタ・グリジと別れ、帝立劇場学校の生徒だったカピトリーヌ・サモヴスカヤと結婚し2子をもうけた。ロシアに残るかパリへ帰るか決めかねていた時、彼は自宅で思いも寄らない事故に見舞われた。何もしていないのに、壁に立てかけていた大きな鏡が倒れて粉々に砕け散ってしまったのである。彼は余生を送るために[[パリ]]へ帰った。