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{{Otheruses|突厥の后妃|[[唐]]の皇女|安定公主}}
'''千金公主'''(せんきんこうしゅ)
'''千金公主'''(せんきんこうしゅ、生没年不詳)は、[[突厥]]の[[ハトゥン|可賀敦]]。
 
== 生涯 ==
*[[北周]]の趙王[[宇文招]]の娘(太祖[[宇文泰]]の孫)。[[突厥]]の[[他鉢可汗]]、後に[[沙鉢略可汗]]に嫁ぐ。[[隋]]の建国後、'''[[大義公主]]'''に改められた。
[[北周]]の[[趙王]]{{仮リンク|宇文招|zh|宇文招}}の娘で、[[宣帝 (北周)|宣帝]]の従妹にあたる。[[大象 (北周)|大象]]2年([[580年]])に[[突厥]]の[[沙鉢略可汗]]に嫁ぎ<ref name="Shujyo050">『[[周書]]』巻五十 列伝第四十二 異域下</ref>、沙鉢略可汗の没後はその後を継いだ子の[[都藍可汗]]の[[レビラト婚|可賀敦となった]]。[[隋]]が北周に取って代わると、突厥を籠絡しようとした[[楊堅|文帝]]によって[[楊 (姓)|楊姓]]を賜わり、楊家の宗譜に編入され、'''大義公主'''に改封された<ref name="Zuisho084">『[[隋書]]』巻八十四 列伝第四十九 突厥</ref>。
*[[唐]]の高祖[[李淵]]の娘。[[温挺]]、後に[[鄭敬玄]]に嫁ぐ。[[武周]]の建国後、'''[[安定公主]]'''に改められた。
 
文帝が[[陳 (南朝)|南朝陳]]を滅ぼすと、大義公主は[[後主 (陳)|陳叔宝]]の宮中にあった屏風を文帝から賜わった。大義公主が亡国となった陳を祖国の北周に重ね合わせた『叙亡詩』を詠んだ<ref name="TKKK">{{Harvnb|劉學銚|2012}}</ref>ことを知った文帝はこれを苦々しく思い、大義公主を殺そうと目論んだ。都藍可汗の弟の[[啓民可汗|染干]]が隋に通婚を求めてくると、文帝は[[裴矩]]を遣わして通婚の条件として大義公主の殺害を告げた。染干の勧告を受けた都藍可汗によって大義公主は殺害され<ref name="MM">{{Harvnb|蒙曼|2020}}</ref>、[[開皇]]17年([[597年]])に染干は隋から{{仮リンク|安義公主|zh|安义公主}}を迎えた。
{{Aimai}}
 
{{デフォルトソート:せんきんこうしゆ}}
== 出典 ==
[[Category:公主の称号|せんきん]]
{{Reflist}}
 
== 参考資料 ==
* {{Cite book|和書|author=劉學銚|title=突厥汗國: 狼的子孫|publisher=三聯書店(香港)有限公司|date=2012/01/13|isbn=978-9628904297|ref={{SfnRef|劉學銚|2012}}}}
* {{Cite book|和書|author=蒙曼|title=蒙曼説隋:隋文帝楊堅(暢銷經典版)|publisher=麥田|date=2020/02/04|isbn=978-9863447283|ref={{SfnRef|蒙曼|2020}}}}
 
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{{Normdaten}}
'''千金公主'''({{DEFAULTSORT:せんきんこうしゅ)ゆ}}
[[Category:北朝の公主]]
[[Category:北周の皇族]]
[[Category:后妃]]
[[Category:突厥]]
[[Category:殺人被害者]]
[[Category:560年代生]]
[[Category:590年代没]]