「セント・ヘレンズ山」の版間の差分
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== 概要 ==
[[File:Mount St. Helens, one day before the devastating eruption.jpg|thumb|300px|right|1980年の山体崩壊前の山体]]
セント・ヘレンズ山は、[[1980年]][[5月18日]]に大[[噴火]]を起こしたことで広く知られる
カスケード山脈の他の多くの火山と同様に、セント・ヘレンズ山は[[火山灰]]や[[軽石]]などの噴出物が[[溶岩]]とともに[[円錐]]状に[[堆積]]した山であり、複式円錐火山ないし[[成層火山]]と呼ばれる内部構造をしている。またセント・ヘレンズ山には複数の[[デイサイト]]の[[溶岩ドーム]]が崩壊してできた[[玄武岩]]と[[安山岩]]の層が含まれており、この層には1980年の大噴火で崩壊した[[ゴート・ロックス]]と呼ばれた山体の北側の斜面にあった溶岩ドームも含まれている。
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=== 1980年の噴火 ===
[[File:Msh may18 sequence.gif|thumb|300px|right|1980年5月18日のセントヘレンズ山噴火の過程。地震により山体が3つに分裂し、中のマグマが高圧のガスとともに放出されたことがわかる]]
[[File:MSH80 eruption mount st helens 05-18-80.jpg|thumb|300px|right|セント・ヘレンズ山の噴火(1980年5月18日撮影)]]{{Main|:en:1980 eruption of Mount St. Helens}}
[[1980年]][[3月20日]]、セント・ヘレンズ山付近を震源とする[[マグニチュード]]4の地震が発生し、雪崩が山麓の駐車場を襲った。その後も地震が続き、[[3月27日]]には最初の噴火(水蒸気爆発)が発生した。連日のように噴火が頻発し、山頂にできた火口は幅600mまで拡大した。[[4月]]に入ると噴火は次第に減少したが、地下でマグマが移動していることを示す地震は続き、やがてセント・ヘレンズ山の北側が膨らみ始めた。4月の末には、北側斜面の一部が[[1979年]]8月時点と比べて100m近く移動しており、移動速度は1日に1.5mもの速さに達していた。[[5月16日]]に航空機から撮影された赤外線写真には、北側斜面膨張部の山頂側に沿った数箇所で地熱が異常に上昇しているのが記録されていたが、そのフィルムが現像されたのは大噴火の後だった。
火山学者たちはいくつかの有人観測地点を設けたが、最終的には山頂から北に約9km離れた「コールドウォーターII」だけが残った。コールドウォーターIIでは当時大学院生だった[[ハリー・グリッケン]] <ref>彼は1991年6月3日、調査中に[[雲仙岳|雲仙普賢岳]]の火砕流に巻き込まれ死亡。</ref>が観測を担当していたが、卒業研究の準備のため[[5月17日]]に現地を離れ、[[デイヴィッド・ジョンストン]]と交替した。他にもセント・ヘレンズ山の北側にはカメラマンのリード・ブラックバーン ([[:w:Reid Blackburn|Reid Blackburn]])と[[:w:Robert Landsburg|ロバート・ランズバーグ]]、無線技師のジェラルド・マーチン (Jerry Martin)<!-- デイヴィッド・ジョンストンの項目内に記述がある。-->、スピリット湖畔の旅館経営者[[ハリー・R・トルーマン]]、そして伐採業者や火山見物に訪れた野次馬などがいた。避難が長期化したため、5月17日と18日には周辺住民の一時帰宅が行われることになり、伐採や植林などの作業も一部で再開されていた。
[[5月18日]]日曜日、現地時間の朝8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山でマグニチュード5.1の地震が発生した。北側斜面は大規模な山体崩壊を起こし、時速160kmから240kmもの岩屑なだれとなってスピリット湖へ駆け下った。調査本部を呼び出そうとするデイヴィッド・ジョンストンの声("Vancouver! Vancouver! This is it!"(「バンクーバー
セント・ヘレンズ山から北に約11kmまでは跡形もなく吹き飛ばされ、約22kmまでの木々はなぎ倒され、さらに遠方では山火事が発生するなどして合計約600km{{sup|2}}([[東京23区]]に相当する広さ)が大きな被害を被った。50kmほど離れたアダムス山でも気温が一時的に数度上昇した。
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