「後藤晃吾」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 余剰文字の除去
編集の要約なし
32行目:
卒業後は[[社会人野球]]の[[新日本製鐵八幡硬式野球部|八幡製鐵]]に進み、[[都市対抗野球大会]]に10年連続出場。[[1968年]]の[[第39回都市対抗野球大会|都市対抗]]では3勝を挙げ準決勝に進む。[[日本製鉄広畑硬式野球部|富士製鐵広畑]]の[[岡田光雄 (野球)|岡田光雄]]([[パナソニック野球部|松下電器]]から補強)と投げ合うが完封を喫した<ref name=tositaikou>「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年</ref>。同大会の[[小野賞]]を獲得。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ<ref>「[https://www.pannervault.com/Seasons/1968/index.html アラスカ・ゴールドパナーズ1968年]」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである </ref>との日米親善野球試合に出場した。
 
引退後は新日本製鐵八幡監督となる。[[1974年]]の[[第45回都市対抗野球大会|都市対抗]]では、エース[[萩野友康]]の好投もあって準優勝<ref name=tositaikou />。同年は第1回[[第1回社会人野球日本選手権大会|社会人野球日本選手権]]にも出場を果たす
 
== 脚注 ==