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'''小田切 秀雄'''(おだぎり ひでお、[[1916年]]([[大正]]5年)[[9月20日]] - [[2000年]]([[平成]]12年)[[5月24日]]) は、[[日本]]の[[文芸評論|文芸評論家]]、[[近代文学]]研究者。
 
== 経歴・人物 ==
[[東京]]出身。母方の伯父に医学者[[杉田直樹]]がいる<ref>『大正期人物年表』第2巻、p.288(日外アソシエーツ、1987年)</ref>。
 
[[府立高等学校]]尋常科を経て高等科文科1年の時、[[1933年]]、学内の[[日本共産党|共産党]]グループのキャップとして[[治安維持法]]違反で[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[目黒警察|目黒署]][[逮捕 (日本法)|逮捕]]され、75日間[[勾留]]後に「軽はずみでした、もうしません」と宣誓書を書いて[[転向]]し、[[起訴猶予]]処分]]で釈放され、高等学校から諭旨退学処分を受ける。[[1935年]]、[[日本の学生運動|学生運動]]に参加せず学業に専念することを条件として[[法政大学]]予科に編入学を認められる。法政大学国文科卒業。
 
[[1941年]]、『万葉の伝統』で注目されたが、[[1943年]]応召、[[1944年]]に[[荒正人]]や[[佐々木基一]]との[[マルクス主義]]文学研究会が原因で再び治安維持法違反に問われ逮捕されたが、[[結核]]により勾留停止となり釈放。戦後、雑誌『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の創刊に加わる。
 
戦時中は「少国民」に「キミガヨ」の「ありがたさ」を説いた翼賛的な作品を書いていたが<ref>今野敏彦・ 櫻本富雄『差別・戦争責任ノート』(八千代出版、1983年)</ref><ref>櫻本富雄『文化人たちの大東亜戦争──PK部隊が行く』(青木書店、1993年)p.153</ref>、[[1946年]]創刊の『文学時標』では「純粋なる文学の名において、かれら厚顔無恥な、文学の冒涜者たる戦争責任者を最後の一人にいたるまで、追求し(ママ)、弾劾し、読者とともにその文学上の生命を葬らんとするものである」<ref> 『文学時標』創刊号「発刊のことば」</ref>と謳い、毎号「文学検察」欄で戦争協力文学者を糾弾。このため、のちに「小田切は自分のことは棚に上げ、他の『戦争責任者』を追及しはじめた」と批判された<ref>[https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2426/JNK000201.pdf 前田均「住井すゑの戦争責任とその弁護者たち」]</ref>。[[1950年]]に[[三島由紀夫]]を共産党に勧誘するも断られる(後に人生で最も嬉しかった誘い話の1つと三島は回顧している<ref>三島由紀夫『実感的スポーツ論』</ref>)。
 
法政大学教授を務め、[[1965年]]学園紛争で学長と理事が総辞職した際[[総長]]代行を務めた。[[1975年]]、[[芸術選奨文部大臣賞]]に選ばれるが辞退。
 
1988年『私の見た昭和の思想と文学の五十年』で[[毎日出版文化賞]]受賞。『小田切秀雄全集』全18巻がある。
 
古典から現代作家までの幅広い評論をおこなった。[[マルクス主義]]芸術論による執筆が多い。国語教師の研究団体である[[教育科学研究会・国語部会]]に協力し、長年にわたって機関誌『[[教育国語]]』(むぎ書房)に文芸学や作品鑑賞論などを連載した。
 
弟の[[小田切進]]も文芸評論家。息子[[小田切有一]]は[[馬主]]として有名な[[実業家]]である。