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'''佐々木 誠'''(ささき まこと、[[1965年]][[10月3日]] - )は、[[岡山県]][[倉敷市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]、左投左打)、野球指導者、[[野球解説者]]。
 
引退後はプロ・アマ双方のコーチ・監督を歴任し、[[2018年]]より[[鹿児島城西高等学校]]野球部監督を務める。
 
[[横浜DeNAベイスターズ]]でプレーしている[[佐野恵太]]は甥にあたる。
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前年の成績で自信を付けた<ref name="Number_19920705">Number、1992年7月5日号、P.30</ref>{{by|1992年}}は、開幕戦での初回先頭打者アーチを達成し<ref name="mainichi_19930208">[[毎日新聞]]、1993年2月8日付朝刊、P.17</ref>、[[1992年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では第3戦で[[北別府学]]からソロ本塁打を放つなどの活躍で優秀選手賞を受賞した<ref>読売新聞、1992年7月22日付朝刊、P.21</ref>。同年は {{by|1964年}}の[[広瀬叔功]]以来[[日本プロ野球|NPB]]史上2人目となる[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]の同時獲得<ref name="mainichi_19930208" />を達成し、前年に続いてゴールデングラブ賞も受賞など、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。なお、同年の平和台球場における対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦でレフトへの打球がワンバウンドして外野フェンスと上部の金網との間に挟まり、三塁まで到達したもののボールデッドのため二塁に戻るよう塁審から指示が出されてベース上でへたり込んだシーンが[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞]]で取り上げられた。オフの契約更改では3,300万円増でチーム最高となる年俸9,800万円(推定)となっている<ref name="mainichi_19930208" />。
 
{{by|1993年}}は前年苦手にしていた[[渡辺久信]]から開幕戦で[[猛打賞]]を記録する<ref>読売新聞、1993年4月11日付朝刊、P.24</ref>など好調なスタートを切ったが、5月22日に打撃練習で右肋間筋に[[挫傷]]を負い、一軍登録を抹消された<ref>朝日新聞、1993年5月27日付朝刊、P.21</ref>。[[1993年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では第1戦で決勝点となる本塁打を含む3安打を挙げ、好返球による[[補殺]]もあって優秀選手賞を受賞している<ref>読売新聞、1993年7月22日付朝刊、P.21</ref>。レギュラーシーズンでは3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインを受賞した一方この年から本拠地になった[[福岡ドーム]]の広さにチーム全体で苦しみ佐々木も本塁打はわずか7本に終わる。
 
=== 西武時代 ===
{{by|1993年}}オフに[[秋山幸二]]、[[渡辺智男]]、[[内山智之]]との大型トレードで[[村田勝喜]]、[[橋本武広]]とともに西武ライオンズへ移籍。2,200万円増の年俸1億2,000万円(推定)で契約を更改している<ref name="yomiuri_19931204">読売新聞、1993年12月4日付朝刊、P.23</ref>。このトレードに際しては、チームが求めている長打力のある左打者で<ref name="yomiuri_19931117">読売新聞、1993年11月17日付朝刊、P.21</ref>、かつ秋山と同等の守備能力を持ち<ref>読売新聞、1993年11月17日付朝刊、P.22</ref>、年齢が若く[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]取得まで2年ある点<ref name="yomiuri_19931117" />などが西武側から評価されたという。一方、佐々木は自分が唯一尊敬目標とする外野手である秋山とのトレードという点で驚いた<ref name="base_19940328_116" />、リーグ4連覇中の強豪に移籍する事を前向きに受け止めたという<ref name="base_19940328_117">週刊ベースボール、1994年3月28日号、P.117</ref>。秋山については1年後にFA宣言して移籍する可能性も指摘されており、村田と佐々木という若い主力選手を獲得した西武側にメリットが大きいトレードだとも言われた<ref name="yomiuri_19931117" />。
 
{{by|1994年}}はそれまで2番打者のレギュラーだった[[平野謙 (野球)|平野謙]]の退団もあり、監督の[[森祇晶]]は1番・[[辻発彦]]に続く2番打者を任せる構想を持っていた<ref name="base_19940328_116"/>。しかし実際には佐々木が2番で出場したのは数試合のみで、3番打者を任されることが多かった。く、[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]第1戦では[[斎藤雅樹]]から2ラン本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した<ref>読売新聞、1994年7月20日付朝刊、P.21</ref>。前年まで9年連続30本塁打を記録していた秋山と同様の役割に、一発長打を期待する一部のファンからは口汚いヤジの野次も受けた<ref name="base_20020311_40">週刊ベースボール、2002年3月11日号、P.40</ref>ものの自分の、俊足好打が持ち味である佐々木は自分の役割果たすことを心がけ、自己最多の84打点を挙げて2度目の盗塁王も受賞した。[[1994年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では6試合全てに3番・中堅手として先発出場し、第1戦では2安打4打点<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1994_1.html 日本野球機構 1994年度日本シリーズ試合結果(第1戦)]</ref>、第4戦でも3安打2打点を挙げた<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1994_4.html 日本野球機構 1994年度日本シリーズ試合結果(第4戦)]</ref>が、チームは[[読売ジャイアンツ|巨人]]に敗れて日本一を逃した。オフには5,000万円増の年俸2億円(推定)で契約を更改し、NPB日本人選手の中で5位タイの高額年俸選手となった<ref>読売新聞、2000年1月14日付朝刊、P.19</ref>。一方、同年は初のリーグ優勝の喜びと勝利へのプレッシャーが絡み合い、複雑な思いがあったという<ref name="base_20020311_40"/>。
 
{{by|1995年}}は腰痛に苦しみながらも全試合に出場、秋季キャンプでは対策として重点的に走りこみを行なっている<ref name="base_19961014_55">週刊ベースボール、1996年10月14日号、P.55</ref>。オフにFA権を取得すると[[メジャーリーグベースボール|MLB]]からもオファーがあったが、これを断り<ref name="base_20020311_41">週刊ベースボール、2002年3月11日号、P.41</ref>、FA宣言した上で1億円の再契約金と現状維持の年俸2億円(いずれも推定)で西武に残留した<ref>朝日新聞、1995年10月30日付朝刊、P.31</ref>。
 
{{by|1996年}}は[[ハワイ]]と[[マウイ]]での[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を順調にこなしたが、帰国直前に右足首を[[捻挫]]して2次キャンプとオープン戦に参加できなかった<ref name="base_19961014_55" />。開幕後も6月には右手首の捻挫で一軍登録を抹消され、シーズン終盤には右肋軟骨を損傷<ref name="base_19961014_55"/>。若返りを目指すチーム方針もあって夏場以降は新人の[[大友進]]が中堅手のレギュラーとなり、自身は[[指名打者]]として起用される機会が増えた。規定打席到達者では最低の打率.243など不本意な成績の一年となった<ref name="base_19961014_55" />。9月には起用方法への不満などからトレードを直訴したとも報じられ、球団から事情聴取と厳重注意を受け、3,500万円減の年俸1億6,500万円(推定、この他に出来高払い)で契約を更改している<ref name="base_19970908_41">週刊ベースボール、1997年9月8日号、P.41</ref>。
 
{{by|1997年}}は、前年途中より外れた外野のレギュラー奪取を目指し、[[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]との[[恩納村]]での合同自主トレで[[有酸素運動]]などのハードなトレーニングを積んだ<ref>週刊ベースボール、1997年2月10日号、P.129</ref>。4月24日の対オリックス戦で守備の際に右肩を[[打撲]]したが、5月20日には打率がリーグトップの.365まで上がるなど、首や腰の古傷に痛みを抱えながらも主に6番・[[右翼手]]として起用された<ref name="base_19970908_41"/>。9月4日の対日本ハム戦では死球を受けて右[[肋骨]]を亀裂骨折した<ref>読売新聞、1997年9月5日付朝刊、P.21</ref>が、9月14日の2位・オリックスとの直接対決では本塁に突入して[[捕手]]と激突する[[クロスプレイ]]で得点を挙げ、本塁打で通算15001,500安打も達成するなどの活躍を見せている<ref>読売新聞、1997年10月18日付夕刊、P.7</ref>。同年は5年ぶりに打率が3割を超え、チームも3年ぶりのリーグ優勝を達成した。[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]には6番ないし5番・右翼手として全試合に先発出場した。オフには現状維持の年俸1億6,500万円(推定)で契約を更改したが、同年齢で元エースだった[[渡辺久信]]解雇もあってされるなど「一年ごとに結果を残せなければ自分もリストラ対象となる」と厳しい状況を認識した発言をしている<ref name="base_19981019_52">週刊ベースボール、1998年10月19日号、P.52</ref>。
 
{{by|1998年}}は高知でのキャンプ2日目に腰痛のため治療に入り、負担軽減のために[[左翼手]]にコンバートされた<ref name="base_19981019_52" />。シーズンでは6月に入って打撃が好調になってきたが、6月13日の対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦で腰痛が再発して欠場し、右足首の捻挫も重なって6月21日には一軍登録を抹消された<ref name="base_19981019_52" />。7月に復帰した後も8月7日の対近鉄戦で右ヒザに[[死球]]を受けて退場するなど負傷が続き、8月19日に腰痛悪化のため再び一軍登録を抹消されている<ref name="base_19981019_51">週刊ベースボール、1998年10月19日号、P.51</ref>。9月からは[[イースタン・リーグ]]でチームの4番を務めるなど回復したが、中旬には既に解雇が確実になっていた[[ルディ・ペンバートン]]が一軍に昇格して自身は二軍に残るなど、翌年のチーム構想から外れるようになった<ref name="base_19981019_51" />。
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同年オフに金銭トレードで[[阪神タイガース]]へ移籍。なお、自由契約になった場合は[[中日ドラゴンズ]]や日本ハムが獲得を検討していたという<ref>Number、1998年12月3日号、P.115</ref>。
 
監督の[[野村克也]]の野球観が森祇晶と同じように感じられた事もあり<ref name="base_20020311_40" />、トレードに先立って野村には直接電話して意欲を訴えたといい<ref>週刊ベースボール、1999年5月3日号、P.129</ref>野村は「若手の鑑になると思う」など語っ若手選手への手本としての役割を期待した。

腰の負担軽減と外野手の多いチーム事情からキャンプ前には[[一塁手]]兼任を指示され、ダイエー時代に佐々木を指導したバッテリーコーチの[[黒田正宏]]の存在もあって再生が期待されていた<ref>週刊ベースボール、1999年2月8日号、P.126</ref>。{{by|1999年}}の対巨人との開幕シリーズでは7番・右翼手でスタメン起用され、第3戦でこの年投手タイトルを総ナメにしたルーキー[[上原浩治]]から決勝タイムリーを放つなど存在感を見せたが、慢性的な怪我で思うように活躍できず、2年間で46試合の出場にとどまり、{{by|2000年}}に退団した。なお、野村と森の野球観は全く別物だったという<ref name="base_20020311_40"/>。
 
=== 米独立リーグ時代 ===
このまま引退したら後悔すると考え、{{by|2001年}}2月のMLB[[スプリングトレーニング]]に参加し、紅白戦やオープン戦での打率は4割を超えた<ref name="base_20020311_38">週刊ベースボール、2002年3月11日号、P.38</ref>。しかし、35歳という年齢や各球団の[[査証|ビザ]]支給枠の問題もあってマイナーリーグとも契約には至らず、たまたま選手を探していた[[ティム・アイルランド]]に誘われて[[独立リーグ]]の[[:en:Sonoma County Crushers|ソノマカウンティ・クラッシャーズ]]に入団した<ref name="base_20020311_38" />。
 
3番・右翼手で先発出場した開幕戦では4安打を放ち、他の選手と同じ待遇の契約である事がわかるとチームメートとも打ち解けていった<ref name="base_20020311_39" />。最終的に全90試合中83試合に出場し、打率.290、6本塁打、42打点、10盗塁の成績を残した。コーチだった[[古賀英彦]]とシーズン最終戦に握手した際には涙が止まらなくなったという<ref name="base_20020311_39" />。
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2001年オフシーズンに帰国し、同年開始された[[プロ野球マスターズリーグ]]に[[大阪ロマンズ]]の選手として参加。打率.516で首位打者となった<ref name="base_20020311_38" />。マスターズリーグ出場期間中に現役引退を表明した。
 
{{by|2002年}}に[[サンテレビジョン|サンテレビ]]解説者、[[西日本スポーツ]]評論家を務めた後、{{by|2003年}}は古巣・ダイエーの二軍外野守備・走塁コーチに就任。{{by|2004年}}は[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の一軍外野守備兼打撃コーチ補佐、{{by|2005年}}は同球団の二軍である[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス神戸]]の外野守備・走塁コーチを務めた。{{by|2006年}}からは西日本スポーツ評論家に復帰するともに並行して、同年創部された[[セガサミー硬式野球部|セガサミー]]のコーチに就任。[[第77回都市対抗野球大会予選|この年の都市対抗予選]]では東京第1代表決定戦に進みながら、そこから5連敗して本大会出場を逃して社会人野球の厳しさなどにショックを受けたという<ref name="base_20080223_175">週刊ベースボール、2008年02月23日臨時増刊号、P.175</ref>。
 
[[青島健太]]の監督退任に伴って{{by|2008年}}シーズンからセガサミーの2代目監督に就任すると、結果へのプロセスを重視して猛練習を課し<ref name="base_20080223_175" />、同年はチームにとって2年連続となる[[第79回都市対抗野球大会|都市対抗]]出場を果たしている。また、監督業と並行して{{by|2009年}}から[[九州朝日放送|KBC九州朝日放送]]で[[野球解説者]]を務め、主に関東地区での試合の解説を担当していた。{{by|2010年}}には[[JABA静岡大会]]で初優勝を果たし、[[齊藤勝]]と[[宮崎祐樹]]の2人がプロ入りするなどチームは成熟期を迎えた<ref>毎日新聞、2010年11月2日付朝刊、東京地方面、P.21</ref>、[[第37回社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]後にセガサミーの監督を退任した。また、同年12月7日にはプレーヤー部門で[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り候補者名簿に掲載されている<ref>[http://www.npb.or.jp/museum/news20101207.html 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表] - 日本野球機構オフィシャルサイト</ref>。
 
野球観に共鳴したという監督の[[橋本哲也]]からコーチ就任を依頼されて{{by|2011年}}からは[[NTT西日本硬式野球部|NTT西日本]]の打撃コーチを務め<ref>毎日新聞、2011年5月13日付夕刊、P.11</ref>、これにともない九州朝日放送KBCでは関西でのオリックス戦の担当が中心となった。[[第82回都市対抗野球大会|同年の都市対抗]]では前年まで指揮を取ったセガサミーに1回戦で勝利したが、複雑な気持ちだったという<ref>毎日新聞、2011年10月24日付朝刊、大阪地方面、P.23</ref>。当てにいかずにバットを振り抜くというシンプルな方針を打ち出し、助言が合わなければすぐに別のアイデアを出せる引き出しの多い指導で選手から信頼を得た<ref>毎日新聞、2011年6月24日付朝刊、P.21</ref>。翌{{by|2012年}}からは監督に就任した。{{by|2013年}}末に、プロ野球経験者による大学・高校野球の指導に必要な資格(学生野球資格)の回復に向けて講習会を受講。翌2014年3月6日付で、[[日本学生野球協会]]から資格回復の適性を認定された。
 
{{by|2014年}}11月11日にソフトバンク三軍打撃コーチに就任として復帰することが発表された<ref>{{Cite web|date=2014-11-11|url=http://softbankhawks.co.jp/news/detail/11498.html|title=新入団コーチのお知らせ|publisher=福岡ソフトバンクホークス公式サイト|accessdate=2014-11-11}}</ref>。2017年からは三軍監督を務め<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/13882.html 2017年 コーチングスタッフについて] - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2016年10月28日</ref>、同年退団した<ref>[https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00000844.html コーチングスタッフの退団について] - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2017年10月6日</ref>。
 
なお、セガサミー監督時代の{{by|2013年}}末には、プロ野球経験者による大学・高校野球の指導に必要な資格(学生野球資格)の回復向けつい講習会を受講。翌2014年3月6日付で[[日本学生野球協会]]から資格回復の適性を認定された。同年末にソフトバンクへ復帰したことに伴って{{by|2015年}}1月1日付でこの資格をいったん一旦喪失したが、退団後の2017年11月28日付で再度の回復が認められた<ref>[https://www.student-baseball.or.jp/system/prog/reinstatement_list.php?kid=4 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者] - 日本学生野球協会</ref>ことによって、日本学生野球協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導が可能になったため、{{by|2018年}}1月1日付で[[鹿児島城西高等学校]]の監督に就任した<ref>{{Cite web|date=2017-12-21|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20171221/hig17122111290003-n1.html|title=元プロ佐々木誠氏、鹿児島城西の監督に 首位打者1度、盗塁王2度など|publisher=[[サンケイスポーツ]]|accessdate=2017-12-21}}</ref>。
 
鹿児島城西高校では、監督就任2年目の{{by|2019年}}秋に、鹿児島県大会優勝を経て第145回[[九州地区高等学校野球大会|九州地区高校野球大会]]に出場。九州大会では、チームを史上初の準決勝進出に導いた<ref>{{Cite news|title=第1回 新時代の幕開けを予感させた鹿児島!2019年の3大高校野球ニュースを発表!|newspaper=高校野球ドットコム|date=2019-12-25|url=https://www.hb-nippon.com/column/2093-kagoshimano01/14297-kagoshimano01|accessdate=2020-03-19}}</ref>。この実績が認められて、チームは翌{{by|2020年}}に、[[第92回選抜高等学校野球大会]]への出場校に選ばれていた。大会が開催されていれば、チーム史上初めて[[甲子園の名がつく高校生大会一覧#高校野球(硬式)|甲子園球場の全国大会]]出場が実現していた<ref>{{Cite news|title=元プロ監督・佐々木誠氏率いる鹿児島城西、初の甲子園へ! 「チーム一丸、全国制覇目指す」|newspaper=高校野球ドットコム|date=2020-01-24|url=https://www.hb-nippon.com/news/36-hb-bsinfo/40100-bsinfo20200124012|accessdate=2020-03-19}}</ref>、実際には[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|日本国内における新型コロナウイルスへの感染拡大]]の影響で大会自体が中止された。
 
== 選手としての特徴 ==
打撃、走塁、守備の全てを兼ね備えた選手として、全盛期には[[秋山幸二]]と共に「'''メジャーに一番近い男'''」と称された<ref name="base_20020311_39" />。{{by|1990年}}の[[日米野球]]終了後には監督の[[ドン・ジマー]]から秋山とともにMLBに連れて帰りたい選手として名前を挙げられ<ref name="base_20020311_39" />、[[ドン・ベイラー]]がダイエーで臨時コーチを務めた際にも「いつでもMLBで通用する」と評価された<ref name="Number19950608_72">Number、1995年6月8日号、P.72</ref>。入団当時から目標とする選手に[[簑田浩二]]の名前を挙げ、同じように[[トリプルスリー]]を達成できる走攻守の三拍子そろった選手を目指していた<ref name="base_20020311_39"/><ref name="Number19950608_72" />。
 
パワーとバネを兼ね備えた身体能力を持ち、[[川上哲治]]からは「俊足で長打力もあり、1番打者と[[クリーンナップ]]のどちらでも十分に任せられる」と評されている<ref name="base_19960805">週刊ベースボール、1996年8月5日号、グラビア</ref>。正確さがあれば毎シーズン[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を狙えるとも言われ<ref name="base_19960805" />、[[土井正博]]は「ケガさえなければコンスタントに[[打率]].350を達成できる、[[イチロー]]にも劣らない打撃技術の持ち主」と評している<ref name="base_19961014_56">週刊ベースボール、1996年10月14日号、P.56</ref>。