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小学校卒業後、旋盤工として働く。次第に社会運動に傾倒し、[[友愛会]]に所属した。その後[[日本労働総同盟]]に移り、[[日本共産党]]([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])に入党した。この間、[[日本労働組合評議会]]結成に参画するなどの活動を行った。党再建(第二次共産党)後、徐々に党内で頭角を現し、[[佐野学]]とならぶ中心的幹部として[[三・一五事件]]以後の党組織の再建に従事した。
 
しかし1929年、[[四・一六事件]]で警察に検挙され、1933年、獄中で佐野とともに[[転向]]声明「[[共同被告同志に告ぐる書]]」を出した。これは、[[コミンテルン]]の指導を受けての[[共産主義]]運動は日本にはそぐわないものであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(「[[一国社会主義 (日本)|一国社会主義]]」運動)を行う、というものであった。この声明は獄中にあった党員を初め、多くの運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させることになった<ref>[[保阪正康]] 昭和史の大河を往く 第251回 [[サンデー毎日]] 2011年3月27日特大号 pp.52-55</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]後は一時期労農前衛党を結成して政界復帰を図るも果たせず、1946年にはのちに[[塩路一郎]]や[[宇佐美忠信]]など右派労働運動家が出入りする世界民主研究所を設立、その代表理事として[[反共主義|反共]]運動を指導、死去まで勤めた。1950年に結成された[[民主社会主義連盟]]連盟では佐野や[[三田村四郎]]と共に発起人と評議員に名を連ね、[[民社党]]・[[全日本労働総同盟|同盟]]の理論的・戦術的ブレーンとしても活動した。
 
1979年、[[食道癌]]のため死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)21頁</ref>。