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朝鮮総督府の役人だった時 、吉田朝子(当時23歳)と見合い結婚(当時36歳)。終戦後、実家のある鹿児島県大口町に戻り、鹿児島県庁に勤務。郷土史を研究し、県史や議会史等の編纂に携わり、地元の経済大学や短大の講師を兼ねた。
 
妻の朝子は明治40年(1907)8月3日、朝鮮の京城生まれ。父は朝鮮の陸軍病院に勤務していた軍人であった。ひとりっ子としてなに不自由なく育ち、旧制高等女学校を卒業後、単身、日本へ渡り、同志社大学に入学。 3年後、朝鮮の母校で英語の教師を1年間つとめた。正廣と結婚。当地で一男一女を儲ける。終戦に伴い、帰国した翌年に生まれた次男が、のちに[[シンガーソングライター]]となる拓郎。朝子は創立されたばかりのラサール高校の舎監を務め、仕事の傍ら、ラサール高校の図書館で独学し、栄養士の資格を得て、広島の盲学校の栄養士を10年務める。53歳で定年後、広島の自宅でお茶やお花の師匠となる(1985年没)。
 
次男が[[シンガーソングライター]]の[[吉田拓郎]]<ref> 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日)</ref>。キーボードプレイヤーのモンゴル松尾は正廣・朝子の長女の息子。
 
== 著書 ==