「邪馬台国」の版間の差分

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→‎21世紀に登場した異説: この記述で十分、石原洋三郎説のポイントはわかるはずです。
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#九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。
=== 21世紀に登場した異説 ===
又、旅程日数や方角、総距離などの位置の論争について、新史実のない<ref group="注釈">岩波文庫『魏志倭人伝』1985年p17</ref>[[北史倭国伝]]<ref group="注釈">石原道博編訳の魏志倭人伝p17(岩波文庫)において、P40魏志においては、帯方郡から邪馬台国への行程で登場する一大国は、北史の一支国が正しいと説明され、活用されている。</ref>も活用して、場所の特定を行うべきだという意見もあらわれている。北史倭国伝には魏志倭人伝をほぼ丸写しした行路記事に、『隋書』にある『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』がつけくわえられているので、<ref>『[https://www.worldcat.org/identities/viaf-311157100642772740008/ 邪馬台国]』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷。倭国の領域は'''南北三月行の領域'''であり、その中での「南」水行20日、「南」水行10日陸行1月であるとしている</ref>検証・考察が求められるというものである。
 
== 邪馬台国東遷説 ==