「廣枝音右衛門」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
73行目:
==生涯==
===前半生===
1905年(明治38年)12月23日、[[神奈川県]][[足柄下郡]][[根府川村]]([[片浦村]]を経て現在の[[小田原市]])に生まれる<ref name="逗子開成中学校・高等学校">[http://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/2017/02/post-458.html{{Cite web|title=校史余滴 第十二回 ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門 |url=https://www.zushi- kaisei.ac.jp/news/2017/02/post-458.html|website=www.zushi-kaisei.ac.jp|accessdate=2020-05-23|publisher=逗子開成中学校・高等学校]2018年4月22日 閲覧|date=2017-02-24}}</ref><ref name=":0" />。片浦尋常高等小学校(現・[[小田原市立片浦小学校]])・[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成中学]]・[[日本大学]][[大学予科|予科]]を経て、[[1928年]](昭和3年)に[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]として[[佐倉市|佐倉]][[歩兵第57連隊]]へ入隊。[[軍曹]]まで[[昇進]]する<ref name="逗子開成中学校・高等学校" /><ref name=":0">{{Harvnb|小松|1988|pp=38-64}}</ref>。
 
===台湾総督府警察官===
93行目:
[[File:廣枝音右衛門夫妻牌位.jpg|thumb|廣枝音右衛門夫妻牌位]]
[[File:廣枝音右衛門 顕彰碑.jpg|thumb|廣枝音右衛門 顕彰碑]]
戦後の動乱期を経て、1975年(昭和50年)末ごろから廣枝の元部下たちは連絡を取り合うようになり、翌年3月に日本で開催された第二回新竹州警友会で元部下たちからの手紙が公表され「廣枝警部殉職の真相調査委員会設置」の提案が緊急動議された。このとき廣枝の最期の状況を遺族らは初めて知ることとなり、廣枝の未亡人ふみが「夫の死はムダではなかった」と声を上げて泣いたことを[[中日新聞]]が報道している<ref>{{Cite journal|date=1976-03-11|title=戦火の比国 貫かれた人道|journal=中日新聞|page=18}}</ref>。なお、夫に先立たれたふみは[[行商]]などを行いながら女手で遺児を育て上げ、優良母子家庭として[[厚生大臣]]の表彰を受けている<ref name=":0" />。
 
その後、元部下たちへの事情聴取を経て「廣枝廟」の建設が検討されたが、[[台湾国民政府]]の戒厳下にあった当時の台湾においては当局の許可を得ることは困難であるとして断念された。しかし、元部下たちからの「このままでは私達の心のしこりがとれない」という意見を受けて、さしあたり英霊を永代仏として供養することとなり、[[1976年]](昭和51年)に廣枝が行政主任を務めていた縁の地である竹南郡にある[[台湾仏教]]の聖地[[獅頭山]]{{仮リンク|獅頭山勧化堂|zh|獅頭山勸化堂|label=勧化堂}}に廣枝の[[位牌]]が祀られた。以降慰霊祭が毎年執り行われている<ref name=":0" /><ref name="台湾フォーカス">[http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201509270001.aspx 台湾出身日本兵の命救った海軍巡査隊大隊長 ゆかりの地で慰霊祭 - 台湾フォーカス]2018年4月22日 閲覧</ref>。[[1977年]](昭和52年)、日本在住の有志らにより[[茨城県]][[取手市]][[弘経寺(取手市)|弘経寺]]内の廣枝家の墓域に[[顕彰碑]]が建立された<ref name=":0" />。
 
[[1985年]](昭和60年)、廣枝の部下で小隊長であった劉維添が、廣枝隊長自決の場で土を採取して持ち帰り、未亡人ふみに託す。ふみが他界した後、獅頭山の位牌にはその名が加えられた<ref name=":0" />。[[2017年]](平成29年)、廣枝の母校である逗子開成中学校・高等学校が廣枝の功績を紹介した<ref name="逗子開成中学校・高等学校" />。