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'''吉田 正廣'''(よしだ まさひろ 1895年12月8日-1972年1月10日<ref>板根嘉弘「朝鮮総督府官吏・吉田正廣の経歴と業績」(上下)「経済科学研究」21.22号、広島修道大学、2018年2月、2018年8月]</ref>)は、[[鹿児島県]]出身の[[郷土史|郷土史家]]。
 
堂前家の三男として鹿児島県伊佐郡羽月村生。5歳の時、吉田家の養子となる。鹿児島県立鹿屋農業学校卒業。[[朝鮮総督府]]の記録では、大正10年(1921年)、京畿道勧業技手が初見。36歳の時、吉田朝子(当時23歳)と見合い結婚。朝鮮農地令制定の最重要人物とされ<ref>板根嘉弘「朝鮮総督府官吏・吉田正廣の経歴と業績」上巻、「経済科学研究」21号、広島修道大学、2018年2月</ref>、朝鮮総督府高等官(奏任官)として『朝鮮の小作慣行-時代と慣行』(吉田朝鮮農会、1930年)等の著作がある。自らライフワークを「朝鮮の農村及農村生活」の実証的研究である」(『朝鮮に於ける小作に関する基本法規の解説』朝鮮農政研究同志会、1934年<19、19-20頁)と語っていたという<ref>板根嘉弘「朝鮮総督府官吏・吉田正廣の経歴と業績」上巻、「経済科学研究」21号、広島修道大学、2018年2月]</ref>。終戦後、妻子とともに鹿児島県大口町に引き上げ、鹿児島県庁に勤務。郷土史、農民史を研究しつつ、鹿児島県史や鹿児島県議会史等の編纂に携わり、地元の経済大学や短大の講師を兼ねた。
 
妻の朝子は明治40年(1907)8月3日、朝鮮の京城生まれ。父は朝鮮の陸軍病院に勤務していた軍人であった。ひとりっ子としてなに不自由なく育ち、旧制高等女学校を卒業後、単身、日本へ渡り、同志社大学に入学。 3年後、朝鮮の母校で英語の教師を1年間つとめた。正廣と結婚。当地で一男二女を儲ける(長女は早世)。終戦に伴い、帰国した翌年に生まれた次男が、のちに[[シンガーソングライター]]となる[[吉田拓郎]]である<ref> 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日)</ref>。朝子は創立されたばかりのラサール高校の舎監を務め、仕事の傍ら、ラサール高校の図書館で独学し、栄養士の資格を得て、広島の盲学校の栄養士を10年務める。53歳で定年後、広島の自宅で師範として茶道、花道の教室を営む<ref>[http://starstruck99.cocolog-nifty.com/takuchan/34/index.html よしだたくろうの母 吉田朝子さん・週刊平凡毒蝮三太夫シリーズおふくろ第34回]</ref>(1985年没)。