「ドリマス・スカッダー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
1858年に、[[H・M・スカッダー]]の子供として[[ニューヨーク]]に生まれた。[[イエール大学]]、[[ユニオン神学校]]、[[シカゴ医科大学]]で学び[[医学博士]]号を取得した。
 
[[アメリカン・ボード]]の宣教医として受け入れられ、18851884年に姉(初来日し、神戸で活動した<ref name=ance>[[リロイ・ランシング・ジェーンズhttps://www.ancestry.co.uk/boards/surnames.scudder/507 Dr. Doremus Scudder 1858-1942]]の妻)と一緒Ancestry</ref>。1885年来日新潟に移り、1889年に帰国するまで同地に滞在した<ref name=ance/>。[[エディンバラ医療宣教会]]の[[セオボールド・パーム|T・A・パーム]]の[[新潟市|新潟]]での活動を引き継ぐために新潟に行く。しかし、[[福音伝道|伝道]]と教育に専念するために[[パーム病院]]を閉鎖する。
 
スカッダーは新潟市を中心に教会で宣教活動を行い、[[新潟女学校]]、[[北越学館]]で教鞭を執った。[[内村鑑三]]が北学館の仮教頭になる際には仲介者になった。また、[[YMCA]]や[[白十字社]]を創立した。
 
1887年から1888年にかけて、両親と他宣教師10名が新たに新潟に来援した。姉の病気で一時アメリカに帰国して、アメリカで伝道活動を行う。1902年からハワイに赴任し、1916年から1917年まで[[東京ユニオン・チャーチ]]の[[牧師]]として来日すを務める。1942年[[カリフォルニア州]][[プエンテ]]で[[脳出血]]のために死去した。
 
== 参考文献 ==
* [[中村敏]]『世界宣教の歴史』[[いのちのことば社]]、2006年
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{明治時代の来日宣教師}}