「雲芸和議」の版間の差分

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しかし、永禄3年([[1561年]])12月に晴久が頓死すると、晴久の嫡男である[[尼子義久|義久]]が家督を継承すると尼子家臣団にも動揺が起きた。
 
これらの家中の動揺を収束すべく、義久は室町幕府将軍[[足利義輝]]に毛利氏との和睦調停を願うも毛利氏はこの和睦を無視し、和平調停は失敗したとされてきたが<ref>瀬川秀雄『吉川元春』富山房、1944年、144頁</ref><ref>河合正治『安国寺恵瓊』吉川弘文館、1959年、16頁</ref>、実際は和平調停は永禄4年12月末に成立していたことが[[宮本義己]]の研究で明らかになった{{Sfn|宮本|1974a}}{{Sfn|宮本|1978}}。ただ、この和平調停による和平成立期間は半年間だけであった{{Sfn|浅野|2015}}。
 
当時石見銀山が位置する東石見は尼子方に傾いていた。特に[[温泉氏]]・[[多胡氏]]は尼子家臣として重い立場にあり、出雲から派遣されていた[[本城常光]]・[[牛尾久清]]・[[多胡辰敬]]が西石見で反毛利側として反乱を起こした[[福屋隆兼]]を支援しており、現状の追認では不利なものであった。